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ボニー・プリンス・ビリーとシャーリー・コリンズ

今週末に行われるボニー・プリンス・ビリーとビッチン・バハスの来日公演を見に行くことになりました。

実はボニー・プリンス・ビリーもビッチン・バハスもどういう人なのかよく知りません。
ただ、私のアンテナの複数箇所に引っかかってきたので、興味をそそられたというか、こりゃ行った方がいいなと思ったのです。
新譜「Epic Jammers and Fortunate Little Ditties」を買って聞いてみましたが、なかなか良いです(こちらで試聴などできるようです)。
以前に聞いたボニー・プリンス・ビリーのI see a darknessは21世紀の脱力フォークという印象だったけど、今作はいろんな生音やらエレクトロニクス音やらが混ざった多彩な音。

ライナーノーツを読んでいてほぉと思ったのが、ボニー・プリンス・ビリーとビッチン・バハスが共演するきっかけとなったのが、シャーリー・コリンズのトリビュートアルバム「Shirley Inspired」での共演だったということ。こんなところでシャーリー・コリンズという名前を目にするとは思わなかった。といっても、そんなにすごく熱心なファンというわけでもないんですが、デイヴィ・グレアムとの共演版にしてブリティッシュ・フォークの古典「Fork roots, New routes」は大好きで良く聞きました。あとシャーリー・コリンズの自伝「America Over the Water」も読みました。今思うと、なんで苦労して洋書を読んだのか全然思い出せないんですが、恋人にしてアシスタントを務めていたアラン・ローマックスの話やら食べ物の話やら、なかなか面白かったです。アラン・ローマックスと同居していたアパートの1階にあったビザ屋の話やアイスクリームの話はすごく美味しそうで、イギリスの不味い食い物の話とのコントラストが印象的だったな。あと、アメリカのフォークシーンが伝統を軽視してコマーシャルな展開を見せていることに対して、アラン・ローマックスとともに覚えた違和感とか。

というわけで「Shirley Inspired」も注文してしまいました。
数日後届いたのは立派な紙ジャケとまさかの3枚組。ちょっとびっくり。
そんなボリュームなのでまだ聞いている最中ですが、いろんなミュージシャンが自分なりの芸風でシャーリー・コリンズが歌ったイギリスの伝承曲を料理しています。
ボニー・プリンス・ビリーもビッチン・バハスは何とトップバッターで、「Pretty Saro」という曲を演ってます。懐かしくなるような茫洋とした音。

■シャーリー・コリンズが無伴奏で歌う「Pretty Saro」。いかにも英国バラッドですなー。

■デイヴィ・グレアムとの共演版「Fork roots, New routes」のバージョン。中近東入ったなんともいえず胡散臭いギターが最高。

■Wikipediaによれば、この曲はアメリカに渡ってアパラチアのマウンテンミュージックの文脈で広まったようです。ということでアメリカでもこの曲を演っている人は多いようですが、ここでは最近話題のボブ・ディランのバージョンなぞ。って、これってボブ・ディラン?これってPretty Saro?

ちなみに、シャーリー・コリンズは間もなく38年ぶりの新譜「Lodestar」をリリースするようです。81歳で新作を出すっていいなぁ。

   


「ソングス・イン・ザ・キー・オブ・Z〜アウトサイダー・ミュージックの広大なる宇宙」

何やらシャッグスの本があると聞きつけてネットを探したら見つかったのが「ソングス・イン・ザ・キー・オブ・Z〜アウトサイダー・ミュージックの広大なる宇宙」。
アマゾンには中古しかなかったけど、発行元のmapのページを見たら在庫はまだあるようでストアページで直接注文できるらしい。
ということで、速攻で注文。代金の振り込みをぐずぐずしていたら、なんと商品が先に届いてしまって焦りました。

イントロダクションにこんなことが書いてあります。

でも、ケージが自らの精神機能をきちんと統制していたことに疑いを挟む者はいない。そう、ケージの反逆は、意識的なものだったのだ。ケージの『偶然性の音楽』が理論上どんなにでたらめだったとしても、作品は常に制御されていた。
しかし、“意図せずに反逆してしまった人たち”ーーーケージと違い、自分の芸術に対する明確な自覚なしにやってしまったミュージシャンが、実は数え切れないくらいたくさんいる。

で、本編にはそういう無自覚な「天然の」皆様が次々と登場するわけですが、シャッグスは何とトップバッターかい!

シャッグスが何かについては、ウィキペディアなどを参照してください。
私が最初にシャッグスのことを知ったのは、NIFTYのMIDIフォーラムでした。ライブラリに、確かMy Cutieか何かがアップされていたように記憶していますが、なんだか記憶の片隅に引っかかったまま数年が経過した後、CDを見つけて買ってしまったのが運の尽き。
な・ん・じゃ・こ・れ!
■世間では評価が高いらしいMy pal foot foot。アニメがかわいい。

■最初に買ったアルバムの2曲目My Companion。1曲目のI’m so happy when you’re nearは冒頭のコードが(チューニングは著しく狂っているものの)一応Em、C、Gだということはわかるのだけど、My Companionは何のコードを弾こうとしているのかさっぱりわからん。

■ちなみにI’m so happy when you’re nearはドラムのフィルの入り方が素晴らしいです。

「ソングス・イン・ザ・キー・オブ・Z〜アウトサイダー・ミュージックの広大なる宇宙」を読み(実はあと数十ページ残っている)、紹介された方々の音源を集めた同名のコンピをiTunesで試聴して感じたのは、天然物なだけに「魅力」があるかどうかはほんとピンキリだなということ。
で、「魅力」という点では、やはりシャッグズはすごいというか、伊達に40年生き残っていないなということ。他のみなさまの音源は間違いなくすごい(ひどい)けど、シャッグスをしのぐ魅力があるかというと、どうでしょうか。何となく言葉がわからないということも大きいような気もするけど。

ちなみに、あとがきを書いた本書の発行者にして編集・DTPを手がけた小田晶房という名前に何となく見覚えがあるなと思って調べたら。。。
何とyojikとwandaのフィロカリアを出したcompare notesの人だった・・・。なんか最近こういう不思議なつながりが多いような。


祝!ギャラガー&ライルのファーストアルバム初CD化

枕で「ラビリンス/英国フォーク・ロックの迷宮」の話をしようと思ってアマゾンを見に行ったら、なんと電子ブックになっている!
CD-ROMにPDFが入っているという微妙な仕様がなんだかそれらしいです。

それはさておき、今から20年近く前に「ラビリンス/英国フォーク・ロックの迷宮」を買って読んで、見たことも聞いたこともないレコードが際限も無く紹介されているのに大きな衝撃を受けました。
ちょうどその頃、この本に載っていたマイナーな作品がぼちぼちとCD化されていたので、良いレビューが書かれていたものをいくつか試しに買って聴いてみました。バシュティ・バニヤンとか、シャーリー・コリンズとデイヴィ・グレアムとかですが、これがみんな大当たり!一気にこの本に対する信頼度がアップしたのでした。

そんな本のとあるレビューにこんなことが書いてありました。

コリン・ヘアとロニー・レーンの1st、そしてギャラガー&ライルの1stが私にとっての英国3大フォーク・ロック・アルバムです。初恋の思い出のように甘酸っぱいのです。

ほぉと思って真っ先に手に入れたのがコリン・ヘア。今思うと、コリン・ヘアが一番入手しやすいというのは何かがおかしいような気もしますが、これはまぁまぁという印象でした。いや、決して悪くないというか良い作品なんですが、私はどっちかっつーとその後入手したハニーバス(コリン・ヘアが在籍していたバンド)の方が好きだった。

次に手に入れたのがロニー・レインの1st。スモール・フェイセスのオリジナルメンバーだからマイナーとは言えないか。たまたま中古レコード屋を漁っていたら、そんなに高くない値段で見つかったので買ってみました。これは大当たり!一時期はCDが出ていたのに今は見当たらず。

問題はギャラガー&ライル。1stはCD化されたこともなく、中古レコード屋でも見たことがありませんでした。その筋の店に行けばあるのかもしれないけど、きっと目がぴよーんと飛び出るようなお値段なんだろうな。
そこでeBayを漁ったところ、まずまずの値段のものが出ていたのでゲット。送料を入れるとどうしても割高になってしまいますが。
で。これまた大当たり!次々と買った2nd以降の作品もみんな大当たり!いやーすばらしい。
アップルレコードのソングライターだったくらいなので曲自体も折り紙付き(死語)ですが、アコーディオンとマンドリンが得も言われぬ味を出していて本当に良いです。

こんな素晴らしい作品がなんでCD化されないんだろう?と思ってましたが、当初EMIからリリースされ、直後にA&Mからリリースされ直したりしているので、何か契約関係というか権利関係が面倒なのかも。

が。このたびとうとう初CD化が実現することになりました。ギャラガー&ライルの他の作品や、在籍していたマッギネス・フリントの作品も一気にCD化。というわけで、大人買いしまーす。いくつかはレコード持ってるけど、iPodでも聴きたいし、歌詞も見たいし。

 


「新しい音楽とことば」

以前に「音楽とことば」という本のことを書いたような気がしていたのだけど、検索したらこの記事で少し触れていただけだった。
十人くらいの日本の音楽家に歌詞について訊くというインタビュー本だけど、とても面白かったんですよね。
で、最近続編の「新しい音楽とことば」という本が出たので買ってみました。
前作同様、概ね面白いです。
監修者は前作が江森丈晃、今作が磯部涼と別の人で、それぞれのスタンスは今作の「はじめに」と「おわりに」に書かれているとおり、

・・・そもそも江森は歌詞に興味をもってこなかったタイプである。そして、ふと「他の人は歌詞についてどう思っているんだろう?」という逆説的な興味がわき、その初期衝動で一冊つくってしまった。一方、筆者は歌詞のことばかり考えてきたタイプである。

とずいぶん違うわけですが、実際には監修者だけがインタビューしているわけではないこともあってか、それほどこの2冊で大きな違いがあるようには感じられなかったです。前者はやや素朴で、後者はやや濃いという感じもしますが(ティカ・αのは濃いというかインタビュアーが自家中毒を起こしているようで異様であったけど)、もっともこれはページあたり文字数というか文字のサイズの違いによるところが大きいかもしれません。今作は老眼が進み始めた人間にはやや優しくないです。

取り上げられた歌詞も(前作同様)みんなレベル高いと思います。
子供の頃(80年代まで)日本語の歌詞を聴いて良いと思うことはほとんどなかったんですけどね。まあ、当時は自分が幼稚だったということもあるとは思うけど。
もちろん取り上げられている歌詞について好き嫌いはあるけど、読むに値しないようなものはなかったと思います。

音楽家もいろいろ考えていることをまじめに語っていて、考えさせられることも多々ありました。
例えば、ことばには人の心を無駄に揺さぶるというか引きずり回す力があると思うけど、歌詞を作る場合にその力とどう向き合うか。
たぶん、その力を活かさないと歌詞は成り立ちづらいと思うけど、だからといってその力を思う存分使いまくるというのも好きじゃない。
そんなことを大森靖子のところを読んでいて考えたりしました。
なんとなく、椎名林檎が登場したときも、同じようなことを感じたような気がします。当時は自分で歌詞を書いてはいなかったので、感じるだけで考えるところまではいかなかったような気がするけど。

他にもネタがごろごろしてます。お勧め。


 


「Jazz The New Chapter ロバート・グラスパーから広がる現代ジャズの地平」

現代音楽とは何か、誰に聞いても明確な答えは返ってこない。答えはあるのだが十人十色で結局何が何だかわからなくなる。現代音楽とは20世紀に作曲された音楽のことである。ではロックも演歌も現代音楽か、ということになってしまうので、クラシックに限ると註をつける。しかしクラシックとは何なのかという大問題にひっかかってしまう。
(長岡鉄男編集長の本―ヴィジュアル・オーディオ・パワー)

先週末、近所の本屋の音楽雑誌のコーナーを眺めていたら、「Jazz The New Chapter 2」というムック本が平積みされていました。へえ、と思って手に取ってみたら、その下にあるのは別の雑誌。だれかが元の場所に戻すのが面倒で適当に置いていったようです。
それはともかくとして、「Jazz The New Chapter 2」をちらちらと眺めてみましたが、いつまでもマイルスやらコルトレーンやらエヴァンスやらじゃないだろう、長年メディアが取り上げなかった現在形のジャズに光を当てるのだ、という趣旨の本らしい。載っているアーティストも聞いたことない人ばかり。
そういうことなら、まずChapter 1から読んでやれと思いましたが、その本屋には置いてなかったので、家に帰ってアマゾンに注文。サブタイトルに名前を記されたロバート・グラスパーという人についても知らなかったので、Black RadioというCDも併せて注文しました。Chapter 2を買う時はその本屋で買うから許してくれー。
で、一昨日届いたので、まずはBlack Radioを聞いてみました。うん、なかなかいいんじゃないかな。いいんだけど・・・でもこれってジャズ? たぶん予備知識ゼロの状態でこの音楽のジャンルは何かと問われたら、R&Bなどと答えるんじゃないかな。頭に「ジャズっぽい」という形容の言葉は付くかもしれないけど。
となると、これを「Jazz The New Chapter」と呼ぶ時の「Jazz」って何という話になりますよね。もちろんそういうことはこの本では先刻承知で、いろいろな人がいろいろなことを書いてます。例えばスタイルの継承ではなく姿勢や精神や文化の継承が重要なのだと書いている人もいます。そういう考え方に全く不同意、というわけではないのだけど、多様な姿勢や精神や文化を持って音楽をやっている数多の音楽家の誰が「Jazz」の継承者で誰がそうでないかを、好き嫌いのような恣意性で裁断してしまう可能性があるんじゃないかな、という気もしました。
何となく思ったのは、バークリー的な教育機関と教材によって育成された人がマジョリティとなって支えているのが現代のジャズ世界なんじゃないかということ。もちろん、そういうふうに育成された人でジャズをやらない人もいるし、そういう教育を受けていなくてジャズをやっている人もいるわけだから、厳密な定義にはなり得ないんだけど。
で、冒頭の長岡鉄男の話に戻ると、現代音楽って何か、クラシックって何かという話と共通するものがあると思ったんですよ。芸大や国立音大のような教育機関によって育成された人がマジョリティとなって支えていることが、現代音楽を含むクラシックというジャンルを特徴づけていると考えると、わりとすっきり整理できるんじゃないか。

・・・とここまで考えた時に、さて「Jazz」に「New Chapter」を開かねばならぬという問題意識は自分に取って切実かというと、自分はその村の住人じゃないよなーという気が・・・。
ただ、Jazzジャーナリズムが「New Chapter」を開かなかったが故に、この本で紹介されているような音楽が長らく紹介されてこなかったのであれば残念なことだと思うし、この本が「New Chapter」を開くことに大きな意義はあると思いました。

というわけで、なんか面倒な話になったけど、単純に未知の音楽家の未知の音楽を少しずつ楽しんでます。