カテゴリー別アーカイブ: その他

良い本を書いたり紹介したりしてくれる方々

読みたい本、読むべき本は山ほどあって、とても全部読むのは無理です。
それなりに忙しいし、やりたいことは他にもいろいろあるし、そもそも本を読むのはあまり速くないし。
というわけで、読む本を絞り込むことになるわけですが、その際に「この人が書いたり紹介したりする本は参考にする」という人が何人かいます。
前回の投稿でも言及した濱口桂一郎氏や池内恵氏は、そんな人たちのひとり(ふたりか)です。

濱口氏のことを知ったのは、10年くらい前にIT業界などで問題になっていた偽装請負の問題に仕事で関わったときです。
「偽装請負」という言葉を分解すると、「請負でないもの(労働者派遣など)が請負であるかのように偽って装うこと」ということになるでしょうが、では請負と請負でないものを区分する基準は何か。
これは労働省告示第37号「労働者派遣事業と請負により行われる事業との区分に関する基準」ということになるわけですが、ここで「労働者派遣事業でも請負でもないものの扱いはどうなるのか」という疑問が生じます。
IT業界でふつう「請負」というと民法の典型契約としての「請負」のことを想起しますが、IT業界で行われている契約はそれ以外にも典型契約では「(準)委任」がありますし、典型契約ではないものはいっぱいあるはずでしょう。
なのに、労働省告示の名称は、まるでこの世に労働者派遣か請負しかないかのようです。
それ以外の契約は一体どういう扱いになるのか。

さらに、当時偽装請負が話題になっていた分野に、「業務請負」があります。工場とかの構内作業に人を送り込む業態ですが、これはどう考えても仕事の完成を目的とする民法的な「請負」とは違う。

どうも、民法的な請負とは違う請負が労働の分野にはあるようだと、薄々思うようになったのですが、ではなんでそんなことになっているのか。
疑問に思ってすこしずつ調べてみましたが、両者を混同するような解説が多くて、なかなかわからない。

そんな中で出会ったのが濱口氏のサイト「hamachanの労働法政策研究室」でした。
たとえば「請負労働の法政策」という論文にこんなことが書いてあります。

1890年の旧民法では、請負と雇傭の区別は、前者が予定代価で労務を提供する(第275条)のに対して、後者は「年、月又は日を以て定めたる給料又は賃銀」(第260条)を受けて労務を提供するという報酬形態の違いに過ぎなかった。これが1896年の現行民法制定時に変化し、雇傭は「労務に服すること」、請負は「仕事を完成すること」を目的とする契約類型であると整理された。ところが、これは民法上の概念整理であって、世間では依然として広い意味の「請負」という言葉が用いられ続けていたし、他の法律では別の用法が生き残った。現行民法に続いて1899年に制定された現行商法は、その第502条で、営業的商行為の類型として「作業又は労務の請負」を挙げている。予定代価で他人の労務を提供する契約は商法上は請負契約なのである。

もうどんぴしゃりの回答という感じ。
もちろん、民法と労働法や商法で請負という言葉の意味が異なっているというのは困ったことですが、とりあえずそのことを知っておけば混乱しないで済みます。

ちなみに大学の時に受講した「北海道経済史」の授業で出てきた「場所請負」(松前などの漁場での漁労を請け負うこと)も、そういう意味での請負なんだなあと遠い目になってみたり。

というわけで、以後濱口氏の発信する情報に注目するようになりました。

最近だと、働き方改革と称して36協定の上限規制とかインターバル規制とか同一労働同一賃金とかが話題になってますが、どれも以前から濱口氏の本で取り上げられていたものばかりです。
いったいこれらの論点はどういう文脈にあるのかを知りたければ、濱口氏の本(たとえば「働く女子の運命」とか)を読むのが良いと思います。

池内氏はISが台頭した際に、ネットや書籍・雑誌やテレビで非常に有益な解説をされていたので、注目するようになりました。
最初に読んだのは「イスラーム国の衝撃」ですが、最近の「【中東大混迷を解く】 サイクス=ピコ協定 百年の呪縛」もとても面白かった。
複雑怪奇な中東の歴史や情勢を丹念に解き明かしつつ、クリアな整理をしてくれています。もちろん、それは単純な処方箋があることを意味するわけでは全くありませんが。

そういえば、ときどき紹介しているfinalvent氏は「トランプ」というワシントン・ポストによる評伝の書評を紹介していたので、さっそく買って読んでます。

良い本を書いたり紹介してたりしてくれる方々に改めて感謝。
というか、次は出雲旅行記の続きを書きます。

  


WSJ「【寄稿】同胞を見捨てる世界のエリート」について(思いつきメモ)

出雲旅行記の途中ではありますが。

ネット上でこんなWSJの記事を見かけました。【寄稿】同胞を見捨てる世界のエリート

この記事の後半では「エリート」と一括りにして、特にリベラルか否かは問題にしていませんが、前半はメルケルの移民・難民受け入れ政策に関する話が多くの分量を割いて書かれているので、今回の米大統領選の結果のことも考えて、ここではリベラルな理念がなぜ「保護されていない人々=厳しい生活を送り、このような(=大量の難民・移民受け入れのような)重荷に対処するだけの資源を持たず、特別に保護されることもなく、金もコネもない普通の人々」のことを見捨てるようになった(ように見える)のかについて、思いつくままにメモしてみます。

1.リベラルとソーシャルに関する濱口桂一郎氏の議論
 濱口氏のブログに掲載されている「リベラルとソーシャル」という記事は、この問題を考える出発点として良いと思います。
 ポイントは、
1)ヨーロッパでは、経済活動の自由をできるだけ尊重するのがリベラル、労働者保護や福祉の為には経済活動の自由をある程度制限することもやむを得ないと考えるのをソーシャル。
2)アメリカでは、ヨーロッパのソーシャルに相当するものがリベラルと呼ばれている。
※2)の背景については、「リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください–井上達夫の法哲学入門」という本を読んで一応納得はしました。手元に本がないのでうろおぼえですが、確か「何ものから束縛されることなく自由に生きるためには一定の経済的な保証が必要であるとの考えのもと、それを実現するための施策(福祉など)の実現を志向するのがリベラル」だということだったかと。

2.「リベラル」という言葉の多義性
 前項の話だけでも話が混乱する要因として十分だと思いますが、他にもいろいろあると思います。
【リベラル1=ソーシャル】労働者保護や福祉を志向
 これは現実的な問題を解決するということであって、たとえば労働者が安く長時間こきつかわれているのであれば、賃上げとか労働時間削減などの実現に向けて取り組むということですね。労働法制などによる規制も主要な手段の一つです。
【リベラル2】リベラル1の発展系ですが、労働者が不利益な立場にある根本原因を資本主義的な生産様式に求め、その解決策として社会主義や共産主義の実現を掲げる。視線が足下の問題から遠いところにシフトした結果、問題解決に向けた現実的取組への関心が薄れたりすることもあるように見受けられます。
【リベラル3】問題の範囲を労使関係から年齢、性別、人種、性的志向等に拡張し、差別や抑圧の解消を目指す。

時間が無いので尻切れトンボ気味ですが、(アメリカ的意味での)リベラルの軸足が【リベラル1=ソーシャル】から「リベラル2」「リベラル3」へと次第にシフトする中で、【リベラル1=ソーシャル】成分が揮発していってしまった、ということなのかな、と。
とつぜん日本に視点を移すと、例えばリフレ的(=緩和的)な金融政策とか、働き方改革(時間労働削減など)とかは、そもそもがソーシャルな政策なので(アメリカ的な意味での)リベラル政党が真っ先に担いでしかるべきものではないかという気がするんですが、大々的に推進しているのは自民党安倍政権だったりするのも、同じような構造なのかなと。

まあ、腰を据えて勉強したことのある分野でもないので、あくまでも素人のメモということで。

【追記】この記事を寄稿したペギー・ヌーナン氏が、2月にトランプに関する記事を寄稿していたことが池内恵氏により紹介されていました


約20年ぶりにテニスをやった。

思い起こせば、札幌から東京に転職してきた最初の1年は、テニススクールに通ってた。
そういえば転職前にも札幌でテニススクールに通ってたな。
その後、転職して1年もたたないうちに父親が肺がんを患い、程なくして逝去。
看病やら葬儀やらで何度も札幌東京を往復し、全てが一段落したときには、テニスのことは雲散霧消してた。
そのうちギター教室に通うようになり、興味の対象が音楽に移ったんだっけ。

21世紀になってまもない頃、どういうきっかけだか忘れたけど虎ノ門病院で右肘の検査をしたら、骨のかけらが肘の関節に挟まっていることが判明(ネズミっていうんだっけ)。
中学校の頃に卓球をやっていたときに右肘を痛めて肘が伸びなくなり、その後も肘をついつい伸ばすと激痛が走るようになってしまったのだけど、近所の整形外科ではその原因はわからず、社会人になって始めたテニスでも肘が伸ばさないようこわごわプレイしてた(特にスマッシュとサーブ)。
一生治らないものと思っていたのだけど、原因がわかった上に手術をすれば治ると言われ、これはやるしかない!と決意。
でも結局手術したのは数年後だったんですけどね。手術をしたのも家から行きやすい関東労災病院。
それなりの手術の跡は残ったけど、ものの見事に肘の調子はよくなりました。

これで思いっきりテニスできるぞ!と思ったはずなのだけど、
なぜかその後もテニスをやることはないまま、ずるずると時間が過ぎて、
昨日有休を取って手術後初めてのテニスをやりました。
手術からは十数年、最後にテニスをやってからは20年近くの時が流れてしまっただよ。

で、感想。
・体力落ち杉。ボール8個使ったのだけど、ラリー8回やったら息が上がって死にそう。
・フォアハンドはフレームショット大杉。最後の最後にやっと修正できたけど。
・サーブ駄目杉。
・バックハンドは意外とよかった。
・何より良かったのは肘を心置きなく伸ばせること。ボレーもスマッシュも遠い玉に手が届くのは実に気分が良い。

というわけで、今朝は全身筋肉痛でズダボロ状態です。
でもまたやろう。


千鳥足で芋づるを引っ張る。

前回の続き。なんだか変な場所に来ちゃったなと思いつつ、引き続き芋づるを辿り続けてます。しかも今日はビール呑んでて千鳥足です。

石岡瑛子の「私デザイン」は、手がけたプロジェクトについて書かれた12の章から構成されています。
で、最初の章は1985年に公開された映画「MISHIMA」。実は、この映画のことを最初に知ったのは、またしてもという感じですがオーディオ評論家の長岡鉄男がこの映画のサントラ(厳密には違うようだけど)について書いたコラムででした。

・・・ジャケットは緒形拳扮する三島由紀夫だが、他に沢田研二、阪東八十助、永島敏行ら出演、監督はポール・シュレーダー、製作はフランシス・フォード・コッポラとジョージ・ルーカスという豪華メンバーの映画だが、筆者は全然知らない。誰か見た人いる?・・・

なんで「全然知らない」のか。「私デザイン」の第1章の書き出しはこんな感じ。

映画「MISHIMA」は、ある圧力によって葬られたまま、完成から二十年以上立った今も日本では未公開になっている。

ちなみに、DVD等も日本では発売されていないようです。
だったら輸入して見てしまえばよいではないかということで、先日Amazon.comに注文し無事ゲットしました。もちろんリージョンコードの問題はありますが、そのあたりは何とかなるということで。
というわけで、今日見てみました。日本人の俳優が普通に日本語でセリフを言っているので、言葉については鑑賞上なんの問題もありません。
映画は現実世界と小説世界から構成されていて、後者のデザインを石岡瑛子が担当しているんですが、確かにビビッドでインパクトがあります。
何はともあれ、ちょっと三島を読んでみたくなりました。三島って初期の数作くらいしか読んでないんですよね。まずは映画で取り上げられていた鏡子の家と奔馬なぞ。

もう一つへんな芋づるがあるのだけど、それはまた日を改めて。
  


芋づるたどってくらくら。

最近、思いがけないもの同士がつながってくらくらするような感覚を覚えることが増えてきたような。年のせいかな。

たとえばfinalventさんの書評を見て興味を持って読んだ「遙かなノートル・ダム(森有正)」の巻末の年譜を見ていたら、こんな記述に出くわしました。

1915年(大正4年)4歳
妹・綾子生まれる(反核・平和活動家で、原爆の図丸木美術館館長もつとめた関屋綾子)。

この美術館の名前はなんだか見覚えがある、と思ってたどっていったら・・・ここにこういう記述が。

後には栃木県下都賀郡野木町や埼玉県入間郡越生町に転居し、1987年には越生町大満に母スマと自身の絵を紹介する「オッペ美術館」を開館しました(現在は閉館)。

やっぱりそうだったか。yojikとwandaを初めて見たゲストハウスおっぺの前身ですね。

もう一丁。筑摩書房で「遙かなノートル・ダム」の装丁担当者だった栃折久美子という人の「森有正先生のこと」という本の冒頭にこんなことが書いてありました。

すぐ横のソファーに、当時まだ資生堂のデザイン部にいた石岡瑛子さんと私がいた。・・・装丁担当者として仕事をしていた私は、このブック・デザインを、まだあまり本のデザインをしたことのなかった石岡瑛子さんに依頼することを提案した。シャープで幾何学的なデザインをする人だったので、「筑摩的ではない」と社内に多少の反対もあったが、押し切って実現した。

いや、石岡瑛子という人については全然詳しくないんだけど、昔々雑誌Cutに石岡瑛子が映画ドラキュラの衣装デザインを担当してアカデミー賞を受賞した際のインタビューが載っていたのをたまたま読んだら、ウィノナ・ライダーについて、衣装のボタンを外しているのを注意しても言うことを聞かない、何もわかっていない馬鹿な小娘みたいなことが書いてあって、しょえーっと思ったことをなぜか未だに記憶しているという。
それにしても、なぜ筑摩書房が資生堂のデザイン部の人にブック・デザインを頼むことになったんだろう・・・。

というわけで、芋づるをたどっていくと思いもよらない変な場所にたどり着いたりするのは結構楽しい。
旅の土産じゃないけど、「遙かなノートル・ダム」で推奨されていた「音楽のたのしみ(ロラン・マニュエル)」と石岡瑛子の自伝「私 デザイン」はそのうち読むつもり。