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病の皇帝「がん」に挑む 人類4000年の苦闘(シッダールタ・ムカジー)

1990年代、両親が相次いでがんになりました。
母親は乳がん。ステージはIIaだったかな(ちょっと記憶が定かではない)。片側の乳房全部摘出と抗がん剤治療を行いました。今でも健在です。
父親は(非小細胞)肺がん。ステージはIIIb。抗がん剤治療を行っている最中に、腫瘍が気管支の方まで上がってきて、大元が詰まると窒息してしまうので急遽手術。術後、急速に回復するように見えたものの、一週間後から急速に悪化。手術後一ヶ月後に逝去。

そんなわけで、当時がん関係の本をあれこれ読みました。
当時すでにいろいろ話題になることの多かった近藤誠氏の本も何冊か読んで、どういう治療法があるかとか、それらの効果はどういう方法で比較されるかとか、その方法(治験)にはどういうフェーズがあるかとか、そういったことです。最近私の周りでは、近藤氏はあまり評判が芳しくないようなのですが(私自身は最近の同氏の本を読んでいないのでわからないのですが)、当時は非常に多くの有益なことを学ぶことができたと感謝しています。
あと、父親は検査した時点で見通しが厳しいことはわかったので、山崎章郎氏の「病院で死ぬということ」など緩和ケア関係の本もいくつか読みました。抗がん剤治療が一段落したときに緩和ケア病棟に移ることも検討していたのですが、思うようにはいかないものです。

父が亡くなったあとは、身の回りからがんの気配も薄れ、がん関係の本を読んだりすることもあまりなくなりました。
今でもそのような状況が大きく変わったわけでもないのですが、だんだん年を取るにつれて自分の人生がどのように終わるのかをふと考えることも増えてきました。
そして、両親がともにがんを患ったことからして、自分もがんになる可能性は相対的に高いんだろうな、と。

そんなときにfinalventさんのブログで「病の皇帝「がん」に挑む 人類4000年の苦闘」という本の書評を目にして、興味を持って読んでみました。上下二分冊、トータルで約700ページとかなりのボリュームですが、とても面白くて一気に読んでしまいました。
私にとって本書は、90年代に得た知識に歴史的な文脈を与えてくれるとともに、それ以降の状況(がん関係の遺伝子の解析や分子標的薬の開発の進展など)に関する知識をアップデートしてくれるものでした。

「歴史的な文脈」については、例えば無作為化臨床試験はもともと1940年代に次々と開発された抗生物質の効果を客観的に調べる方法として開発されたのが、その後がんに適用されるようになったとか。
免疫療法の薬というよくわからない文脈で理解していたタモキシフェンは、もともと避妊薬として開発されたものの期待されたのとは逆の効果があることが判明し、役立たずの薬とみなされていたのが、その効果こそが「がんの歴史上初めて、一つの薬と、その標的と、がん細胞とが、一つの核心的な分子理論によって結び」つくことになった、とか。
他にも興味深いエピソードが満載です。

でも、個人的にショックだったのは、80年代半ばから幅広く行われた大量の抗がん剤と骨髄移植を組み合わせる治療法のよりどころであった南アフリカの医師の治療成績が、20世紀も終わる頃にインチキであることが判明したくだり。ちょうど両親ががんになった時期なだけに、もし両親にこの治療法が行われていたら、そしてもしも副作用で死んでいたりしたら、この顛末を知ったときに納得ができるものだろうかと考えてしまいました。

でも、だからといって医療不信を一方的につのらせても仕方がないんだろうなとも思います。
それは、医療に仮にいろいろ問題はあったとしても、まがりなりにも一定の効果のある治療方法を開発し運用しているという現実がある、ということもありますが、それ以上にがんが「戦い」の場になっているということがあると思います。

1950年代、ファーバーは自分たちのがん撲滅キャンペーンを指すのに「聖戦」ということばを使い始めた。それは非常に象徴的なことばだった。

戦場という極限状況におかれた一般市民が、それまでの人生からは想像できないようなことをしてしまったりされたりするのと共通しているような気がするんですよ。そして、そのことは当事者の人間性に還元するわけにはいかないんだろうと思います。

フェローシップで医師としてがん患者と向き合い始めた頃のことを著者はこんなふうに回想しています。

しかし、呑み込まれないようにするのは不可能だった。(中略)患者一人一人の経過に心を消耗させられ、自分のした決断が頭から離れなかった。どの抗がん剤も効かなかった66歳の薬剤師の肺がん患者に、化学療法をもう一クール続ける意味はあるだろうか?ホジキンリンパ腫の26歳の女性には、効果は確立されているが不妊になる危険性のある抗がん剤の併用療法を試すべきだろうか?それとも、効果は確立されていないが不妊にならずにすむ可能性の高い併用療法を選択すべきだろうか。

こんな日常におかれて日々奮闘する医療関係者には畏敬の念を覚えずにはいられませんが、一方で生身の人間(その多くは不治の病で死にゆくような人間)に直面する耐えがたさが、がんを克服したいという、多くは義侠心に基づく意欲の発現の仕方を、「木を見て森を見ない」とか「がんは消えた。人は死んだ」みたいな方向に歪めてしまったりもすることもあるのだろうな、という気がします。

以前に読んだ本で、「症例」という言葉が生身の人間を隠蔽している、みたいな批判を読んだ記憶があります。その批判には頷ける面もあるけど、いつもいつも生身の人間に向き合い続けるのは、ほとんどの人にとってはしんどいことだろうな、と。

そんな重たくて問題だらけの状況を引きずりながら、その後はどうなっているかというと。

(下巻p242)

1994年(中略)がん遺伝学者のエド・ハーロウが、時代の苦悩と歓喜の両方を表現する印象的な演説を行った。(中略)「がんの分子的異常についての知識は・・・20年間にわたる献身的で、非常にすぐれた分子生物学研究のたまものである。しかしながら、そうした知識は今もまだ、効果的な治療法に翻訳されてもいなければ、なぜある治療は効くのに別の治療は効かないのか、という疑問への答にも翻訳されていない。苛立ちばかりが募る時代である」
 それから10年以上あとに、私はこの同じ苛立ちをマサチューセッツ総合病院の外来で感じることになった。

最近もがんにかかって手術したり、がんで亡くなったりする芸能人のことが話題になりましたが、そういう話を見聞きするにつけ、まだまだがんとの戦いは長くかかりそうだなと嘆息してしまいます。
でも一方で、従来は考えられなかったような効果的な薬が少しずつ開発されているらしいことも確かのようで、本書の最後の方で語られる、グリベックという分子標的薬が慢性骨髄性白血病(CML)に著しい効果を発揮したくだりは、がんとの戦いの今後に希望を感じさせてくれます。
もっとも、がんはきわめて多様なので、個々のがんがそれぞれどのくらい希望を持てるのか状態なのかもまちまちなんだろうと思いますが・・・。
 


ヴァシュティ・バニヤン来日公演に行ってきた。

※Vashti Bunyan Japan Tour 2015
ということで、昨日行ってきました。
前回、ビルボードライブ東京に見に行ったのっていつだっけ?と思って自分のブログを検索したら、5年前か。微妙な時間だな・・・。
今回の会場は品川の教会。

前回はJust Another Diamond Dayの曲を何曲もやっていたように記憶しているけど、今回はタイトルナンバー1曲だけだったような(2回やったけど)。メインは復帰後の2枚目と3枚目の曲で、そのせいか前回よりも静謐で瞑想的な雰囲気が教会の雰囲気が良く似合ってたように感じました。
そういえば、父親のジョン・バニヤンという人は宗教文学では著名な作家らしいですね。岩波文庫等から翻訳も何冊か出ているようです。読んだことないけど。

60年代の曲も2曲ほど。I’d like to walk around your mindはとても好きな曲。

なんか、終わった後の帰り道で品川の街をぼんやり眺めながら歩いていたら、昼間の仕事やら暮らしやらが泥沼でのたうち回っているかのように感じられて、なんで自分はこんなことやってるんだろうなという思いにとらわれたりもしたけれど、でもそうしないとこういうライブを見ることもできないわけで。


昔のブログの画像データのリンク修復中

野付半島
このブログ、2012年2月にJugemから引っ越してきたんですが、その際、画像ファイルはJugemに置いたままでした。
記事の中の画像へのリンクを書き換えるのが面倒だったので。

最近、昔の記事を見たら、画像が表示されなくなっています。
どうしたのかなと思ってJugemを見に行ったら、画像置き場のURLが変わってました。

というわけで、いい機会だと思って、遅ればせながら画像自体の引っ越しを敢行しました。
URLの書き換えもVelvet Blues Update URLsというプラグインで一括して行えました。便利便利。

が。2005年8月8日以前の記事は、画像の管理の仕方が異なるため、上記の方法ではうまくいかず、90個近くのURLを手作業で書き換える必要があります。
めんどくさいなぁ。まあ近日中にやるけど。
今日はこれでおしまい。
【9/26追記】2005年8月8日以前の記事についてもURLを書き換え作業が完了し、画像が正しく表示されるようになりました。あー疲れた。

トップの写真はブログ第一号の記事に貼っていたもの。
冬の野付半島です。左右に海が見えます。


鮎川信夫

以前、Wikipediaのスガシカオの項を眺めていたら、

また、戦後詩の代表的な詩人である鮎川信夫にも影響を受けたと語っており、『SWEET BABY』の中に出てくる「Oh SWEET BABY 胸のシリコンはまだ今でもそんなに痛むかい」という歌詞は、鮎川信夫の代表作である『死んだ男』の作中にある「Mよ、地下室に眠るMよ、きみの胸の傷口は今でもまだ痛むか」との類似点も多く、その影響がうかがえる。

という記述が。
うーむ、そうだったのか。

鮎川信夫は、現代詩文庫の詩集を1冊持っているだけですが、その一番最初の詩が「死んだ男」なんですよね。
鮎川信夫資料室というサイトによれば、1947年2月に発表された、とあります。
これも含め、「1 橋上の人」に含まれる終戦後の詩編では、第一次『荒地』を共に企画した詩人・森川義信など戦争で死んでいった人々のことと、彼らがいなくなった戦後の世界(に生きている自分)とを中心に言葉が紡がれていて、とても強い印象を受けた記憶があります。

それに続く「2 囲繞地」には戦前の詩が含まれていて(「死んだ男」では「短かった黄金時代 活字の置き換えや神様ごっこ」と言ってますね)、優れていることはわかるんですが、「1 橋上の人」の後に続けて読むと、なんだか頭が馬耳東風状態になってしまい、結局これまでのところ頭にはほとんど残ることはありませんでした。

でも、昨晩とある店でビール飲みながら、「1 橋上の人」を飛ばして「2 囲繞地」からゆっくり読んでみたら、割と頭というか心に入ってきたんですね。
多くの詩は1930年代に作られたようです。ということは、まだ二十歳前に書いたのか。
うーむ。すごいなあ。

詩に限った話じゃないけど、同じものでも接した時によって、すごく良く入ってくることもあれば全然入ってこないこともあるなぁと改めて思いました。
というわけで、また少しずつつきあってみようと思います。


「ボブ・ディラン自伝」をだらだらと読み返す。

「ボブ・ディラン自伝」を買ってからそれなりの月日が経ったけど、今でもときどき読み返しています。布団の中とか、風呂の中とかで。最近は布団の中で本を読んでいるとすぐに寝てしまうんですが。
何に影響され、何に打ちのめされ、何を気にしないようにし、何を捨てて、自分はどちらに進むか。

ウッディ・ガスリーやロバート・ジョンソンを聞いて衝撃を受けるくだりを読んで、自分にはそんなふうに音と言葉が一体となって打ちのめされるという体験はなかったな、と改めて感じます。

もともとは洋楽から入ったこともあって、最初は音だったんですよね。いや、もちろん洋楽好きでも何を歌っているのか好奇心を持ってしっかりチェックしている人もいるのは知っているけど。私はそうじゃなかった。

一方、言葉については「これはすごい!」と打ちのめされたような経験はほとんどなかったような気がします。
歌詞ということではスガシカオくらいかな。いわゆる文学の詩はぽろぽろと読んでいたけど、萩原朔太郎と、あとは現代の詩が若干。そのくらい。
これはもっぱら私の側の問題なんでしょう。感受性が鈍いのか、ツボがずれているのか、あるいは両方なのか。
それなりに努力はしたつもりなんですよ。詩集とかがんばって読んでみるのだけど、馬耳東風というか馬目東風というか。いくら文字を追っても入ってこないものは全く入ってこない。

自分で曲を作るとき、ほとんどはいわゆる「詞先」です。
もちろん歌詞を書くのが得意だからではありません。全く逆。
歌詞さえ書ければ、それに音をつけるのは何とかなるだろうという感じです。
で、その「歌詞さえ書ければ」の部分が絶望的なまでにしんどく感じられたんですよね。最初は。

最近は、そこまで絶望的にしんどくはなくなったような気がします。歌詞を書くのは。
もちろんすらすらどんどん書けるようになったわけでは全くないですが。
一方で、音の方に何となく限界を感じるようになってきました。「何とかなるだろう」という感じで作ってきたツケが回ったのかもしれません。
いや、作っているときはそれなりに一所懸命やっているんですよ。ただ、最初に歌詞を書いてしまうと、何となくその範囲でしか音も作れないというか。
ここはひとつがんばって、自分の音楽の幅を拡げないと前に進めないかも・・・。そんな気がしています。

というわけで、次のアルバムはいつできるかわからないけど、また自分なりの新しい境地を切り開くことが出来たらいいな。
と思いつつ、部屋の片付けやら料理やら見舞いやら雑事に追われる日々。