finalventさんの「村上春樹の読み方『風の歌を聴け』」を読んでみた。

cakesという、いろんな書き手の文章を週150円で読ませるサイトがあって、日頃よく読んでいるブログや雑誌などの書き手が何人も寄稿しているようなので、興味を持って入会(というのかな)してみました。それまで知らなかった面白い書き手に出会ったりして、なかなか楽しんでいます。

以前に何度か紹介した極東ブログのfinalventさんも「新しい「古典」を読む」という連載を持っていて、最近、村上春樹の「風の歌を聴け」を取り上げたというので、興味を持って読んでみました。
明日まで無料公開しているということなので、興味のある方はお早めにどうぞ。

ちなみに、「風の歌を聴け」は大学の時に読んで以来すっかりご無沙汰だったので、「ああ、そんな話だっけ」と少しずつ思い出しながら読みました。
謎解きにより全体の構造・脈絡を明らかにするというアプローチなのですが、その手際は鮮やかで、ああそういうことだったのかと目から鱗が落ちるような思いをすることもたびたびでした。

なんですが。

冒頭でfinalventさんは、「彼の文学に対するある種の誤読の傾向」という言い方をしています。
でも、「風の歌を聴け」って、全体の構造・脈絡を明らかにするよう読者に謎解きを促す作品なんでしょうか。

たとえば、年表(もっと短い期間なので月表とか日表とか言ったほうが適切かもしれないけど)でも作って、個別のエピソードをはめ込んでみたら、finalventさんほど緻密ではないにせよ、それに近い全体の脈絡は見えてきたかもしれません。が、そんなことをやる人はたぶん(ほとんど)誰もいなかった。

むしろ、あまり脈絡のないもろもろのエピソードをコラージュし、全体としてそれらしい時代風俗的な雰囲気を醸し出している作品、というふうに受け止められたように記憶しています。
コラージュなんだから、個々の要素の論理的・因果的な関係を追求するのはダサいという感覚もあったかと思います。

もうひとつ、これらのエピソードに包まれた(偽装された)この作品の本当の主題は恋人の自殺であるとfinalventさんは言います。
恋人の自殺って、ごく具体的・現実的に考えたら、かなり無残な体験なのではないかと想像しますが(経験があるわけではないので、本当のところはよくわからないけど)、一方で、具体的・現実的に考えることをしなければ、たやすく甘美な妄想・空想・ファンタジーのようなものになってしまうネタでもあるかと思います。村上春樹の小説についてよく「喪失感」というキーワードで語られていたような記憶がありますが、そこからもある種の心地よい甘美さのようなものがにじみ出ていると感じることがよくありました。

この二つを合体すると、
「甘美なファンタジーとしての(恋人の)死にオチを、時代風俗的なコラージュでくるんだ作品」みたいなことになり、なんか、ひどいくさし方をしてしまっているような気がしますが、でもそんなふうに受け止められたことが、初期の村上春樹作品が広く読まれた理由の一つでもあるんじゃないかなという気もします。

村上春樹本人はそういうつもりはなかったのかもしれないけど、結果としてそういう受け止め方をされてしまったので、こりゃまずいと思ってもう少しストレートな描き方をしたのがノルウェイの森だったのだけど、やっぱり受けたのは直子の自殺という甘美な喪失感の世界だったのでは・・・などと、それこそ妄想してしまったりしてしまいました。ふと。


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