わたしの二十世紀(PIZZICATO ONE)

最近、小西康陽のソロ・プロジェクトPIZZICATO ONEの新作「わたしの二十世紀」を聞いています。

ミュージック・マガジンの小西康陽のインタビューを見たら、

自分の中では“いわゆるシンガーソングライターのレコード”だと思っているんですよ。

と書いてありました。
たしかにそんな感じです。

とある本で、キャロル・キングの「つづれおり」での、60年代に職業作家として他のシンガーに提供した曲の自作自演について、「あれは自分自身のことだったんだね、と思った」といった意味のことが書かれているのを読んだことがあります。
文字通り「自分自身のこと」というより、自分の中から出てきたもの、あるいは自分に降りてきたものという意味でなら、きっと「わたしの二十世紀」も同じような作品なのでしょう。キャロル・キングが自分の歌でやったことを、小西康陽は他人の歌でやったという違いがあるだけというか(本人も一曲歌ってるけど)。実際、上記のインタビューでもキャロル・キングが演ったナチュラル・ウーマンみたいなのが好きだと言っていますし。

一方でディスクレビューを見ると、

聴いている間に残像として浮かび上がってくるのは、歌詞に込められたメランコリアだ。それも、あきらかに死の匂いが感じられ・・・

とあります。これもたしかにそういう印象はあります。
一方で、インタビューでは

過去の曲ばかりなのでソングライティングは1ミリもしていない。もっというと、今はこんなに書ける自信がないですね。

と言っていて、インタビュアーから理由を尋ねられると、

歳を取ったからだと思います。あと、若いときに比べて幸せになっちゃったからかもしれないですね(笑)。

と答えています。

うーん。その、今の幸せを歌にしてくれないかな・・・。

いや、単なる幸せな歌というよりは、勝手に時が過去の悩みを解決して、棚ぼたのように幸せがもたらされたことというか、大切だと思い込んでいたことがなんだか無かったことにされてしまったような感じというか。
「死」についても、愛と表裏一体の美しい死とかじゃなくて、親を看取ったり(ベン・ワットの父親の散骨の歌とか)、近い世代の死にみっともなく(というと偽悪的かもしれないけど、少なくとも人に憧れを催させるような美しさはないと思う)不安を感じたりするようなやつ。

まぁ、自分に降りてきたものを表現するのってたぶん本人の自由になるもんでもない気がするし、そもそもそんなことは人にお願いする筋合いのものではないですよね。
だから私は私でこんな歌を作ってるわけです。ただ、周囲に人影がまばらな感じがして淋しいだけなんだと思います。


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