「ボブ・ディラン自伝」をだらだらと読み返す。

「ボブ・ディラン自伝」を買ってからそれなりの月日が経ったけど、今でもときどき読み返しています。布団の中とか、風呂の中とかで。最近は布団の中で本を読んでいるとすぐに寝てしまうんですが。
何に影響され、何に打ちのめされ、何を気にしないようにし、何を捨てて、自分はどちらに進むか。

ウッディ・ガスリーやロバート・ジョンソンを聞いて衝撃を受けるくだりを読んで、自分にはそんなふうに音と言葉が一体となって打ちのめされるという体験はなかったな、と改めて感じます。

もともとは洋楽から入ったこともあって、最初は音だったんですよね。いや、もちろん洋楽好きでも何を歌っているのか好奇心を持ってしっかりチェックしている人もいるのは知っているけど。私はそうじゃなかった。

一方、言葉については「これはすごい!」と打ちのめされたような経験はほとんどなかったような気がします。
歌詞ということではスガシカオくらいかな。いわゆる文学の詩はぽろぽろと読んでいたけど、萩原朔太郎と、あとは現代の詩が若干。そのくらい。
これはもっぱら私の側の問題なんでしょう。感受性が鈍いのか、ツボがずれているのか、あるいは両方なのか。
それなりに努力はしたつもりなんですよ。詩集とかがんばって読んでみるのだけど、馬耳東風というか馬目東風というか。いくら文字を追っても入ってこないものは全く入ってこない。

自分で曲を作るとき、ほとんどはいわゆる「詞先」です。
もちろん歌詞を書くのが得意だからではありません。全く逆。
歌詞さえ書ければ、それに音をつけるのは何とかなるだろうという感じです。
で、その「歌詞さえ書ければ」の部分が絶望的なまでにしんどく感じられたんですよね。最初は。

最近は、そこまで絶望的にしんどくはなくなったような気がします。歌詞を書くのは。
もちろんすらすらどんどん書けるようになったわけでは全くないですが。
一方で、音の方に何となく限界を感じるようになってきました。「何とかなるだろう」という感じで作ってきたツケが回ったのかもしれません。
いや、作っているときはそれなりに一所懸命やっているんですよ。ただ、最初に歌詞を書いてしまうと、何となくその範囲でしか音も作れないというか。
ここはひとつがんばって、自分の音楽の幅を拡げないと前に進めないかも・・・。そんな気がしています。

というわけで、次のアルバムはいつできるかわからないけど、また自分なりの新しい境地を切り開くことが出来たらいいな。
と思いつつ、部屋の片付けやら料理やら見舞いやら雑事に追われる日々。


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