「リベラル」という言葉について(メモ)

ネット上でこんな記事を見かけました。【寄稿】同胞を見捨てる世界のエリート

この記事の後半では「エリート」とひとくくりにして、特にリベラルか否かは問題にしていませんが、前半はメルケルの移民・難民受け入れ政策に関する話が多くの分量を割いて書かれているので、ここではリベラルな理念がなぜ「保護されていない人々=厳しい生活を送り、このような(=大量の難民・移民受け入れのような)重荷に対処するだけの資源を持たず、特別に保護されることもなく、金もコネもない普通の人々」のことを見捨てるようになった(ように見える)のかについて、普段何となく思っていることをメモしてみます。

ずっと「リベラル」という言葉はわかりづらいなぁと思っていました。
「自由」というニュアンスの言葉なのに、どうして民主とか平等とか福祉とか弱者救済とかいったものを意味するのかな、と。

たとえば、hamachanブログの「リベラルとソーシャル」という記事にはこんなことが書かれています。

しかし、少なくとも欧州的文脈でいえば、リベラルとソーシャルという対立軸は極めて明確。それが日本でぐちゃぐちゃになりかけているのは、ひとえにアメリカの(本来ならば「ソーシャル」と名乗るべき)労働者保護や福祉志向の連中が自らを「リベラル」と名乗ったため。それで本来「リベラル」と名乗るべき連中が「リバタリアン」などと異星人じみた名称になって話がこんがらがっただけ。そこのところをしっかり見据えておけば、悩む必要はない。

なんでアメリカでそんなことになったのか疑問でしたが、そのあたりはその後に読んだ「リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください–井上達夫の法哲学入門」で、一応は解消しました。いま本が手元にないので不正確だけど、要するに何者かから束縛されることなく自由に生きるためには、最低限の経済的なものが保証される必要があるから、それを実現しようとする理念がリベラルなのだと。

「自由」の内容について整理するとこんな感じでしょうか。
1.経済活動の自由(とそこから得られた果実を自由に我が物とすること)
 hamachanの意味でのリベラル(反意語はソーシャル)。井上達夫の意味でのリバタリアニズム。
2.(特定の価値観への)隷属からの自由
(1)封建的遺制からの自由
(2)差別(人種、性別、性的志向、疾病等)からの自由
(3)政治的圧政からの自由
 井上達夫的な意味でのリベラルはこれに近いのでしょうが、どちらかというとこれはウヨ・サヨという切り口の方が混乱がなさそう。

 で、「何者かから束縛されることなく自由に生きるためには、最低限の経済的なものが保証される必要がある」という考え方を上記の切り口で位置づけると、1.の意味ではソーシャル、2.の意味ではリベラル、ということになるでしょう。

 一方、リベサヨなるものがあります。戦前の粛軍演説の斎藤隆夫という人も、反戦で自由主義で、でも農民や労働者の困窮した生活の改善には冷淡、というのもこれに近いと思われますが、1.の意味でも2.の意味でもリベラルということになるのでしょう。ただ、2.の意味でリベラルというのは理念的というか思想的な意味においてであって、現実問題として隷属から解放されるためには経済面からの担保が必要であり、そのためには1.の意味ではある程度ソーシャルである必要があるのではないかという気がするのですが、そういうところには無頓着というか。

時間切れだ。

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