讃岐旅行記 その2(森川義信生家の詩碑)

森川義信という詩人のことをどのようにして知ったか、あまり覚えていません。

高校から大学の頃、現代詩というものに興味を持って、少しだけ読んでいたことがあります。
ただ、とても感動して深くのめり込んだ、ということは全然なくて、なんとなく微妙な距離感を持って接していたという感じだったように思います。基本的な部分で、あまりよくわからなかったというか、ぴんとこなかったということなのかもしれません。それでも完全に縁が切れるというわけでもなく、細々と付き合い続けたのはなんでなんだろ。やっぱり詩を書いてみたかったのかな。

そんな中で読んだ「鮎川信夫詩集(現代詩文庫)」の最初の方に出てくる、戦争で死んだ友人のことを語る遺言執行人というモチーフで書かれたいくつかの詩が印象に残りました。
そして、Mというイニシャルで語られる「死んだ男」が森川義信という詩人のことだと、何を読んで知ったのか。。。
※ちなみに、「死んだ男」の最後の行「きみの胸の傷口は今でもまだ痛むか」にインスパイアされて、スガシカオはSweet Babyの「むねのシリコンは まだ今でも そんなに痛むかい」というフレーズを書いた、という話もあったような。これも何で知ったのか覚えていない。。。

森川義信という人は一体どういう詩を書いたのか、好奇心を持って「鮎川信夫詩集」の巻末にある現代詩文庫のリストを見てみたけど、森川義信という名前を見つけることはできず、なんだかがっかりしたことを今思い出しました。

その後、大学卒業前後(本の奥付の日付からその頃だろうと推定しているだけで覚えているわけではありません)に読んだ「ぼくの現代詩入門(北村太郎)」という本に、「若い荒地の詩」という章があって、そこに森川義信の詩が2つ載っていました。ひとつは「勾配」、もう一つは「あるるかんの死」です。
「勾配」はそのとき初めて読んだけど、「あるるかんの死」は見覚えがあったように記憶しています。高校の教科書か何かに載っていたのかな。そのあたりもどうにも定かではないんですが。
「あるるかんの死」について、北村太郎はこう書いています。

こうして書き写していると、身体が震えてくるみたいな感動を覚えます。こんなにも深く、読むものを沈黙に引き込む詩って、この百年の間に何篇あったか、と思います。

この百年の間にあった詩についてほとんど何も知らない私にこの評価の是非を語る資格はないけれど、「読むものを沈黙に引き込む詩」というのはなんだかわかる気がします。

その後、長い時が経過して、最近どういうわけかアマゾンで森川義信の詩集を入手することになりました。
なんでこのようなものが目に留まったのか、最近のことなのによく覚えていません。耄碌してきたんでしょうか。
編者の鮎川信夫が解説で「・・・あまりうまくない朔太郎ばりの詩を書く一方、・・・シュルレアリスムの栄光を受けたような詩も書くという具合に、中期ではやや作風に変化を来した・・・」と書いているとおり、結構いろんなタイプの詩があって興味深く読みました。初期の作品など十代に書かれていることもあって、若々しいなぁという印象。

で、この本に載っている年表から、香川県三豊郡の生まれだという事を知りました。本人や家族の写真の他、生家の写真まで載っていました。
そこから、どうして生家に「勾配」の詩碑があることを知ったのか、これまた最近のことなのになんだかよく思い出せません。たぶん何となくあれこれぐぐっているうちに引っかかったんだろうと思いますが。

で、今回の讃岐旅行に森川義信の生家にある「勾配」の詩碑を見に行くというイベントが、出来心のようにして挿入されたのでした。
場所はすぐにわかりました。稲作地帯に散在するのどかな集落という感じ。「森川義信文学館」のようなものがあるわけではなく、古い日本家屋の空き家の前に石碑があるだけです。

衝動を芸術に具体化するうえにおいて、太古の洞窟に動物の絵をはじめて描いた原始人と同じような手を持っていたということが、彼の不幸であり、栄光であった。(鮎川信夫解説)

どうも天然の自然人みたいなタイプの人だったらしいので、たぶんどんな時代のどんな場所に生まれていても、その才能は開花したんだろうなと想像します。
で、讃岐ののどかな田舎に育ち、東京で数々のきらめくような才能の持ち主たちと交流したあと、異国の地に出征し25歳で戦病死する人生というものに、石碑の前で思いをはせようとしてみましたが、6月の日差しを受けて頭がぼんやりするばかりで、なんだかうまくいきませんでした。

自分はここで一体何をやってるんだろ。

 


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