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Desde que o samba é samba弾き語りました。

ぼんやりしているうちに、年が明けてから11日が過ぎてしまいました。
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
オミクロン株の爆増がいささか不安で、もしかすると感染は避けられないのかもしれないけど、あまりひどいことにならないよう祈っています。

さて、書き初めならぬ弾き初めということで、「Desde que o samba é samba」を弾き語りました。

ご他聞に漏れず(?)、この曲を初めて聞いたのはジョアン・ジルベルトの「ジョアン 声とギター」でです。
ライナーノーツに書かれていたように(正確な表現は忘れましたが)「タイトロープを渡るようなきわどいコード進行」に魅了され、いつか弾いてみたいと思っていました。今回アップにこぎつけることができて嬉しいです。

半年で4曲アップはなかなか良いペース。
しばらく復習モードというか、じっくり弾き込んで身体にしみこませようと思います。
その後は、それを栄養にまたオリジナル曲でも作れたらいいな。


Bonita弾き語りました。

メネスカルが楽曲を聴いてみると、アルバムとして出すには、ピアノとチェンバロの伴奏があまりにも稚拙だと感じた。「トゥッカのハーモニーは間違っていたし、全然ボサノヴァになっていなかった。パリでは、ブラジルへの恋しさから、なんだって良く見えてしまうんだ。でもここブラジルであの状態で出すわけにはいかなかった。
(「ナラ・レオン 美しきボサノヴァのミューズの真実」)
アルディは言っています。
「(中略)彼女(トゥーカ)の音楽は、いつもいささかむつかしく、何の妥協も許しませんが、そのおかげで私は、自分としてはおそらく最上の歌詞を書くことができました。」
(フランソワーズ・アルディ「私の詩集」のライナーノート)

いわゆる「ネオアコ」に触発されてボサノヴァなるものに興味を持ったのは大学生から社会人になったばかりにかけての頃だったように記憶しているけど(もう40年近く前だ)、何も知らないままボサノヴァの代表作だと思って最初に買った「ゲッツ/ジルベルト」がなんだかぴんとこなくて、次に買ったのがナラ・レオンの「イパネマの娘」という1985年の来日記念盤。その10年以上後に「元祖ボサノヴァ」とでも言うべきジョアン・ジルベルトのオデオン時代の三部作をまとめた「ジョアン・ジルベルトの伝説」を買うまでは、ボサノヴァのCDは上記の2枚しかなくて、もっぱらナラ・レオンの方ばかり聞いてました。

その後、今日に至るまでの二十数年間にあれやこれやといろいろ聞いて、それなりに知識も増えたわけですが(当社比)、割と後になってから(それでも今から十年くらい前かな)聞いたのがナラ・レオンの1971年の作品「美しきボサノヴァのミューズ(Dez anos depois)」。
ボサノヴァを生み出した環境で幼少期を過ごしながらも、自らの音楽活動は脱ボサノヴァ的な時代と立ち位置からスタートし、その後ブラジルの軍政の圧迫からパリに逃れた際に創った作品、というようなことはおぼろげながら知ってはいました。ボサノヴァの時代が過ぎ去ってから十年後(Dez anos depois)に遠い異国で唄うボサノヴァということで、深いリバーブのかかったしっとりと昏い(感傷的とも言えるかもしれない)音楽に魅力を覚えました。もっとも2枚組24曲というボリュームもあって、じっくり聞き込むというよりも通して聞き流すようなことが多かったのだけど。

その中でも印象に残っていたのが「Bonita」という曲で、今回軽い気持ちで自分のレパートリーに加えてみることにしたのですが、残念ながらナラ・レオンのバージョンの譜面は見当たりません。作曲者であるアントニオ・カルロス・ジョビン自身のバージョンの譜面がダウンロード販売されていたので購入し、併せてジョビン自身やジョビンとフランク・シナトラが共演した音源も聴いてみたのだけど、なんだかナラ・レオンの音源とずいぶん違う。もちろん男声と女声の違いやアレンジの違いもあるけど、どうもそれだけではなさそう。

そこで、ナラ・レオンのバージョンを自分なりに耳コピして、ジョビンの譜面と比較してみたのだけど、これがなかなか興味深い。
ジョビンのバージョンは、マイナー基調の前半と平行調のメジャー基調の後半に分かれいて、後半の方はめくるめく複雑な展開ではあるものの、全体としては構造が明確で「律儀」な印象を受けます。
一方、ナラ・レオンのバージョンは、前半と後半というような明確な分かれ方はしていないし、全体にとりとめなく浮遊感が強い印象。しかも、小節数もところどころ変わっていたりしていて、いわゆる「リハーモナイゼーション」というよりももっと創作、再作曲っぽいニュアンスを感じます。
このバージョンをナラ・レオンと一緒に創ったトゥッカ(トゥーカ)という人のことは今回初めて知ったけど、音楽学校を出ていて曲も作りアルバムも数枚出しており、ナラ・レオンのアルバムと同時期に出たフランソワーズ・アルディのアルバム「私の詩集(La question)」では”Direction Artistique”としてクレジットされ、アレンジとほとんどの曲の作曲を担当し、ギターまで弾いているような多才な人のようなので、ナラ・レオンのアルバムでも(少なくとも一枚目は)相当大きな役割を果たしているのだろうなと思われます。

そうであるなら、この創作・再作曲のポイントは何でしょうか。

この曲の歌詞はアメリカ人の書いた英語詩ですが(いきさつはWikipedia参照。なんか音楽業界ってこの手の話って多いですよね)、実は今回聞き込むまで曲全体が英語の歌詞だとは気づいていませんでした。「何聞いてるんだ」と思われそう。いや、途中で”I love you, I tell you,…”と唄っていたりするのは認識していたけど。。。まあ、その程度の聞き込み具合だったということで。
で、詩の内容はいにしえのアメリカのスタンダードナンバー的に王道で、男が恋する女に向かって「あなたは私に何を求めているの。あなたの望むことは何でもやるから行かないで。僕を愛して」云々と訴えるもの。なんともストレートな内容なのですが、その中でひとつ気になったのは、
like a soft evasive mist
you are, Bonita
というくだり。この歌詞で唯一知らない英単語はevasiveだったのですが、訳すと

とらえどころのない霧のよう
あなたは ボニータ

といったところでしょうか。
そしてアレンジ面でも、この歌詞の部分に入る前に一小節挿入して引き延ばされている上に、コードもIII/IV→IV7(9)→III/IV→IV7(#11)という謎めいた浮遊感の強いものが使われているなど、かなり特徴的な箇所になっています。

何となく思ったのは、ジョビンやシナトラのバージョンが「とらえどころのない霧のよう」な人に対して悶々と苦しんでいる気持ちを表現しているのに対して、ナラ・レオンのバージョンは音楽そのものが「とらえどころのない霧のよう」な存在になっているのではないかということ。そして、その唄をナラ・レオンが唄うことで、愛する側と愛される側のイメージが重なり合って複雑な味わいを醸し出しているようにも感じます。

とまあ、そんなことをあれこれ考えながら弾き語ってみました。


Wave弾き語りました。


前回から3ヶ月近く空いてしまいました。3ヶ月前というとコロナウイルスδ株が猖獗を極めていた頃だったかと思いますが、ずいぶん状況は変わったものだと思います。10月以降はごく親しい友人と少しずつ食事に行ったりするようになり、この一年半ほどいかにいろんなことを我慢していたかを身を以て思い知らされました。いやー会食ってほんと素晴らしいです。

というわけで、弾き語りも前回のEste seu olharから3ヶ月ぶり。こちらは割と短めのインターバルです。まだいろんな意味で自分には「音楽の肥やし」が足りないような気がしていて、少し頑張っていろんな曲に取り組もうとしています。
今回はWave。説明の必要もない有名曲ですね。結構私のレパートリーからは有名な曲が漏れていたりします。例えばSó Danço SambaとかMas que Nadaとか。まあそれでも好きな曲しかやる気はないですが。

私事ですが、ずいぶん長い間喉と鼻の調子が悪くて、安定して声を出すことが出来ず悩んでましたが、最近良い薬に当たったようで、だいぶ状態が改善されてきている感じです。
この動画でも、少しはまともな歌になっていればいいのですが。


Este Seu Olhar弾き語りました。


コロナ禍も悪化の一途を辿っていますが、皆さんはいかがお過ごしでしょうか。
私はお盆前後はよくドライブに出かけました。
といっても、飲食店とかに行くわけにはいかないので、ただ車を運転するだけ。
多摩川沿いの道など、同じようなところばかり走っているのですが、それでもいい気分転換にはなっています。
で、よく聴いているのが90年代に買った「ジョアン・ジルベルトの伝説」。わが家の15年落ちのマーチにはスマホなどは接続できないので、もっぱらCDを聴いているのですが、「伝説」はとにかくいっぱい曲が詰め込まれているのでいいんですよね。
というわけで、レパートリーを拡張しようと思って久々に練習したEste Seu Olhar。簡潔にしてさらりとした情感のあるいい曲だと思います。
録画に初めてiPhoneを使ってみました。これまでのウェブカメラに比べると画質ははるかに良いし(画質を良くする意味のある被写体なのかという話はありますが)、音質も私程度のギター弾き語りにはこれで十分な気が。


Pra Que Discutir Com Madame?(マダムとの喧嘩はなんのため?)弾き語り動画アップしました。


前回の投稿は2/22か。世間はコロナ一色になって、私の生活でも主に仕事でいろいろ変化は到来しているけど、こと音楽に関してはその活動のしょぼさゆえ、コロナがあろうがなかろうが大した違いがないというのが、ありがたいようでもあり残念なようでもあり。

というわけで、ひさびさに弾き語り動画をアップします。
「Pra Que Discutir Com Madame?(マダムとの喧嘩はなんのため?)」。
2003年の初来日公演ライブアルバム「João Gilberto in Tokyo」のライナーノーツで「コンサート中盤のクライマックスシーンだった」と評されている曲です。
私もライブを見に行って、当時この曲を知らなかった程度のにわかファンでしたが、こりゃすげぇと感動したのを覚えています。
当時の私はヤマハのフォークギター教室に通っているような人間であり(そもそも来日公演のことも当時の道玄坂ヤマハにポスターか何かが貼り出してあったのを見て知った)、ボサノヴァ弾き語りなぞ全然やってなかったので、将来自分が曲がりなりにもこの曲を演るようになるなどとは思いもしませんでした。
この17年間も無駄ではなかった、年をとるのも悪いことばかりではないと、なんだか感無量ではあります。

ところで私は祖師ヶ谷大蔵カフェムリウイで「日本語ボサノヴァ三国志」という企画を年1回くらいのペースでやっているのですが、一緒に演っているOTTさんも東輝美さんもこの曲をレパートリーにしています。
しかもどちらも日本語で。

OTTさんは「ボサノヴァ日本語化計画」というサイトを作っていて、膨大な数の曲を日本語化しています。
大元の意味が比較的ストレートに伝わるような日本語ではあるのですが、随所にキラリと光るものがさりげなく散りばめられていて、機知に富んでいるのが大きな魅力です。
この曲も、もちろん「ボサノヴァ日本語化計画」にアップされていますが、ここではライブ動画を。2010年というとちょうどOTTさんと知り合った頃かな。

一方、東輝美さんのはすごくひねっています。
この曲のもともとの歌詞は、サンバをくだらない音楽だとディスるお上品なマダムに反論するという内容なんですが、東さんはこれを反転させて、マダム目線の歌詞にしてしまってます。
これはめっちゃ面白いので、ぜひ聞いてみてください!
というか、次に「日本語ボサノヴァ三国志」のライブをやるときには、ぜひ見にきてください!

この二人のに比べたら、私は単にオリジナルのポルトガル語を弾いて歌っているだけで何のひねりもありませんが、とりあえず「日本語ボサノヴァ三国志」のメンバーで唯一この曲を弾けなかった私が、なんとかかんとか音符を並べられるようになったということで、やっとスタート地点に立つことができたような気がしています。ゴールはどこかは知りません。