月別アーカイブ: 2014年9月

エレキギターの音

最近、ライブではもっぱらエレキギター(韓国製エピフォン・カジノ)を使ってます。
もっぱらフロント・ピックアップをトーン全開で、エフェクター無しでミキサーに直接突っ込むという使い方です。

ボサノヴァとかだとジャズギター的な音(ハムバッキングでトーンを絞る)で演るイメージが一般的かもしれませんが、私はP-90の、完熟の果物からじゅくじゅくと滴る濃くて甘酸っぱい汁みたいな音が好きなんですよね。なんかやらしい言い方だな。

エレキでスリーフィンガーというと、私がすぐ思い出すのはビートルズのホワイトアルバムに入っているディア・プルーデンスとハピネス・イズ・ア・ウォーム・ガンですねー。でも、ウィキペディアを見たら、ディア・プルーデンスはカジノのリア・ピックアップだとか。改めて聞いたら、まあ確かに高音は伸びているかな。でも我が家のカジノのリア・ピックアップはこんないい音はしないような・・・もっとくどくてきつい高音。ハピネス・イズ・ア・ウォーム・ガンはまたちょっと違った音色。記憶っていい加減だなー。

対バンのレバさんから、ミキサー直だといかにもラインっぽい音なんでDI(Sansampとか)とかを使った方がいいんじゃないかとのアドバイスをもらいました。今度試してみようっと。

※追記 ディア・プルーデンスのアコギ弾き語りデモを見つけた。いやぁいいなぁ。ほんとYouTubeってすごいわ。


暮らしの音楽ライブIV 新曲その2(追記)

「青空のかたち」について、とある友人から、

なんとなく、金沢でジェームズ・タレルの作品を見たときの感覚を思い出したんだけど
インスパイアされてるのかなー

との指摘が。

ジェームズ・タレルって誰だっけと思って検索してみたら・・・うぉーーー!!!これか。
美術館のサイトには解説だけで写真はないけど、画像検索でぐぐったらいっぱい出てくる
はい。すっかり失念していたけど、間違いなくインスパイアされていると思います。
実物見てるだけでなく、年賀状のデザインに使ったくらいだし・・・。
というか、なんでこんな大事なことを忘れていたんだろ。頬っ被りしてごまかすつもりは全然なかったのだけど。
単に押し寄せる高齢のため記憶力が減退したということなんだろうか。いやー。

というわけで、なんだかすごく感動しています。
貴重なご指摘ありがとう!>友人


暮らしの音楽ライブIV 新曲その2

■青空のかたち

「花火と子供」は、すでに存在する曲に、これまたすでに存在するネタ(あのまりあさんの日記)で作った歌詞を付けた、という成り立ちなので、それほど時間もかからずに出来上がりましたが(あのまりあさんが曲を公開してからまだ二ヶ月経ってない)、もう一つの新曲「青空のかたち」は時間がかかりました。

今年の初め頃、広尾のレ・グラン・ザルブルというカフェに行ったときのことです。花屋の上にあるツリーハウスみたいな店で(経営は一緒らしい)、あのときは屋上の席に行ってみました。当然のように寒かったんですが、ここでビルや木々に取り囲まれた冬の青空を見ながらぼーっとしていると、「青空のかたち」という言葉と、それに付随する漠然としたイメージが思い浮かんだんですね。

これで曲を作ろうと思って、少しずつ歌詞を書き進めたんですが、どうも何を言いたいのか焦点が定まらない。
「青空のかたち」の核心というか肝はいったい何なんだろうと思いつつ、時間はだらだらと過ぎていきました。

きっかけは思いがけないところからやってきました。
出来心で大枚はたいて買った「マラルメ全集I 詩・イジチュール」を眺めていたら、「青空」という詩が目にとまりました。
この詩で青空は、無能で怠惰な詩人に「理想」とか「罪障」を思い起こさせて苦しめる脅威のような存在として描かれていて、詩人は霧やら靄やら煤煙やらを動員して青空を殺すのだけど、結局は青空は亡霊としてよみがえって詩人に取り憑いてくる。そんな詩です。
(追記)ネットを検索したら日本語訳が見つかりました。

自分のお粗末な歌詞をマラルメの詩と比較するのも憚られますが、「青空」を読んだことは、「青空のかたち」の青空は何なのかを考える上で非常に参考になりました。

「青空のかたち」の青空は、魂を解放させているときも、雨の中でしょげかえっているときも、気を取り直して現実に帰ろうとしているときも、そういう人間の状態とは関わりなく、いつもそこにある存在です。
「青空」の青空のように「脅威」というとらえ方はしていないけれど、一方で肯定的なとらえ方をしているわけでもない。

結局、「自然には、かなわない」の「自然」とか、「ホルモン」の「体の中を流れるもの」と同じような存在なんだ、と気がついたときに、一気に歌詞として完成に向かったのでした。
とはいえ「じゃあ要するになんなんだ」と言われるときに、きちんと答えられるようなものにはなってませんが、それはもともとがそういうものなので、これ以上焦点をはっきりさせると、むしろ意図したこととは違ったものになるような気がしています。

曲は、シンプルで良いものを作ろうと努力しました。
基本的には12弦エレキギターによるフォークロック(ビートルズとかバーズとか)をイメージしていますが、ライブでは6弦エレキによるトラヴィス・ピッキングです。取りあえず、今いちばん無難にこなせるやり方を採用したという感じですが、思ったよりは全然良い感じになったように思います(演奏のレベルはともかく)。


暮らしの音楽ライブIV セットリストと新曲その1

朝アップしたライブレポートにセットリスト書くの忘れた。

1.ハイビスカス
2.同潤会アパート
3.月と桃
4.いつか住んでいた家
5.花火と子供(新曲)
6.白い月
7.自然には、かなわない
8.ホルモン
9.青空のかたち(新曲)

今回は久々に新曲をやりました。それも2曲も。やったね。
というわけで、新曲について動画とコメントを。

■花火と子供
月と桃を共作した音楽友達のあのまりあさんは、朝の通勤電車でiPad mini+GarageBandを駆使して曲を作っているとのことですが、1ヶ月半くらい前のmixiの日記に、ボサノヴァの曲を作った、と書いてありました。
で、このメロディには是非ポルトガル語の歌詞が欲しい、と。
でも、自分では書けないので、とりあえずGarageBandでサウンドスケッチ的なものを作って、お蔵入りとのこと。
ちなみにそのサウンドスケッチは↓です。かっこいいですよねー。

全くもってもったいないなぁと思ったんですが、その数日後のあのまりあさんの日記に、家族が公園でやる花火をテーマにした、ちょっとしんみりしたエッセイがあったんですね。
その末尾の方に、

次に花火をやるのは、孫と・・・かな。

とか書いてあって、ぎょえ〜と思ったんですよ。
私には子供もいないわけで、ましてや孫のことなんて考えたこともなかったわけですが、私とほぼ同世代のあのまりあさんが、自らのこととして孫について語っているのは相当インパクトがありました。

一方で、これをネタに、昨日の曲に歌詞をつけてみたらどうだろう?というアイディアが唐突に浮かんできました。
「音楽とことば」という、何人かの音楽家に歌詞をテーマにインタビューした本がありますが、そのなかで曽我部恵一が、

ダンスホール・レゲエの人が書く歌詞も、凄くドメスティックでいいよね。(中略)「おじいちゃんになっても愛してるで〜」みたいな。ああいうことを歌えるのは、凄く勇気があると思う。

と言っていたのを思い起こして、「孫ならおじいちゃんに勝てるかもしれない」とかよくわかんない考えが頭の中を渦巻き、あとは歌詞作りまっしぐら、という感じ。

てなわけで、出来上がった曲の出来映えについては正直なところ半信半疑でしたが、一方で「孫」って一定以上の年代の多くの人の心を揺さぶるものなのだから、その心の揺れをうまく捉えることができたら面白い歌詞になるはずだ、という気持ちもありました。
とりあえず今回のライブで披露して、それなりに肯定的な反応もいただけたので、いくぶんは安堵していますが、さてどうでしょうか。
(リズムはよれよれだし、歌詞を忘れている箇所もあるけど)


【来場御礼】暮らしの音楽ライブIV レバ+クラモトキョウコ、heli@渋谷North Marine Drive

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9/7(日)の「暮らしの音楽ライブIV@渋谷North Marine Drive」、おかげさまで無事終了しました。
当日は昼過ぎまで結構な量の雨が降っていて、どうなることかとひやひやしましたが、夕方には何とか上がってくれました。とはいえ足下は悪いわけで、そんな中たくさんの方にお越しいただき、本当にありがとうございました。

前半は私が演りました。
演奏の出来は、例によってアレなところも多々ありましたが(汗)、それでも「花火と子供」「青空のかたち」という新曲2曲を披露できてよかったです。詳しくは明日以降に動画を上げる際に・・・。

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後半はレバさんクラモトキョウコさん(アコーディオン)とのデュオ編成はこれまで2回見ていて、本当に良かったので、今日も絶対良い演奏をしてくれると確信してましたが、そんな期待に十二分以上に応えてくれたと思います。

私がこういう音楽活動をするようになったきっかけの一つ(それも大きな一つ)が、レバさんの作品を聞いたことだと何回か言ったり書いたりしてきました。
では、レバさんの音楽のどういうところに惹かれたかというと、音楽の魅力ということに尽きるわけだけど、高度で複雑だけどスタジオミュージシャン手癖系(フュージョンやAORで聞かれるような)のものとは一線を画したコードワークとか、シンプルだけど要所要所でピリッとしたフレーズを交えるギターとか、繊細な味わいの唄とか、そういったものが渾然一体となった音楽そのものがとにかく良いんですよね(なんかうまく言えなくてもどかしいのだけど)。

歌詞は、そのような音楽の良さが引き立つよう、ウィットやユーモアやペーソスを交えつつ、控えめな表現が選ばれている感じがします。強すぎない言葉というか。
一方で我が身を省みると、割と言葉は強めというか、音楽と必ずしもしっくり来るわけではないいびつさを、今は選ぼうとしているのかなと再認識しました。
そういう意味では、少し違う場所にいるとも言えるんですが、でもレバさんの音楽の魅力を最大限に味わうのに、あまり強くていびつな言葉はふさわしくないような気もするし、もしかしたら自分が目指している音楽も本質的にはそういうものかもしれない。
何となく二つの行き方の間でしばらく葛藤しそうな気もします。

(そういう意味では、レバさんと似た方向の音楽でいびつな言葉がついているのが、これまた大好きなプリファブ・スプラウトなのかもしれないと思うんですが、歌詞が英語なので、言葉のいびつさをダイレクトに感じ取ることができないのが残念です。)

クラモトキョウコさんのアコーディオンは、レバさんの音楽の繊細でセンチメンタルな部分によくフィットしていたように感じました。7年くらい前にレバさんのライブを見た時にはサポートはギターだったけど、どっちが好きかと言われれば私は断然アコーディオンです。
特に、最後に演ったWindowという最近の曲は、曲作りの時点でアコーディオンを想定している感じで、非常に効果的な感じがしました。曲の最後の方でいったん音が消えて、そのあとアコーディオンがすーーっと入ってくるところは本当に美しくて、聞くといつも半泣きになります
(笑)。

それにしても、最初にレバさんの宅録作品を聞いた時には、一緒にライブをやる日が来るなんて全く思ってもいませんでした。
そういう意味では、今回のライブはいつにもまして感慨深いものがありました。
ありがとう&今後もよろしく>レバさん、クラモトキョウコさん