最近、思いがけないもの同士がつながってくらくらするような感覚を覚えることが増えてきたような。年のせいかな。
たとえばfinalventさんの書評を見て興味を持って読んだ「遙かなノートル・ダム(森有正)」の巻末の年譜を見ていたら、こんな記述に出くわしました。
1915年(大正4年)4歳
妹・綾子生まれる(反核・平和活動家で、原爆の図丸木美術館館長もつとめた関屋綾子)。
この美術館の名前はなんだか見覚えがある、と思ってたどっていったら・・・ここにこういう記述が。
後には栃木県下都賀郡野木町や埼玉県入間郡越生町に転居し、1987年には越生町大満に母スマと自身の絵を紹介する「オッペ美術館」を開館しました(現在は閉館)。
やっぱりそうだったか。yojikとwandaを初めて見たゲストハウスおっぺの前身ですね。
もう一丁。筑摩書房で「遙かなノートル・ダム」の装丁担当者だった栃折久美子という人の「森有正先生のこと」という本の冒頭にこんなことが書いてありました。
すぐ横のソファーに、当時まだ資生堂のデザイン部にいた石岡瑛子さんと私がいた。・・・装丁担当者として仕事をしていた私は、このブック・デザインを、まだあまり本のデザインをしたことのなかった石岡瑛子さんに依頼することを提案した。シャープで幾何学的なデザインをする人だったので、「筑摩的ではない」と社内に多少の反対もあったが、押し切って実現した。
いや、石岡瑛子という人については全然詳しくないんだけど、昔々雑誌Cutに石岡瑛子が映画ドラキュラの衣装デザインを担当してアカデミー賞を受賞した際のインタビューが載っていたのをたまたま読んだら、ウィノナ・ライダーについて、衣装のボタンを外しているのを注意しても言うことを聞かない、何もわかっていない馬鹿な小娘みたいなことが書いてあって、しょえーっと思ったことをなぜか未だに記憶しているという。
それにしても、なぜ筑摩書房が資生堂のデザイン部の人にブック・デザインを頼むことになったんだろう・・・。
というわけで、芋づるをたどっていくと思いもよらない変な場所にたどり着いたりするのは結構楽しい。
旅の土産じゃないけど、「遙かなノートル・ダム」で推奨されていた「音楽のたのしみ(ロラン・マニュエル)」と石岡瑛子の自伝「私 デザイン」はそのうち読むつもり。