音楽〜作る・演奏する」カテゴリーアーカイブ

なぜ(現代)詩はわかりにくいか

去年の春から詩の教室に通い始めて1年半。
まがりなりにも月に一作ペースで詩を書く作業につきあいつづけながら、詩についてああでもないこうでもないと考えてきました。
そんな考えを、備忘録も兼ねてまとまらないなりに少しずつ吐き出していこうと思います。

現代詩の入門書を何冊か持っていますが、どの本も「現代詩はわからない、むずかしい」という見方が広く世間で共有されていることを指摘し、その原因について考察しています。
私も現代詩のわからなさ、むずかしさについてあれこれ考えてきましたが、それは結局のところ、現代詩が「『散文(性)』とは逆の方向性」といった、ネガティブ(「・・・ではない」という形)で、しかも程度問題な捉え方をするしかないところに原因があるのかな、というのが現時点での詩の初心者としてのおぼろげな認識です。
ここで「散文(性)」という言葉は、
「一つの明確な意味をあらわすために、言葉が手段化・透明化・黒子化すること」
という程度の意味で使っています(私の独自用法です)。
最も典型的なイメージとしては、文学的な散文というよりは、マニュアルとか契約書とかの方が近いかもしれません。

で、「詩」を「散文(性)」と逆の方向性を追求することにより、何らかの芸術的な価値を生み出すものとして捉えてみます。
上記の定義で考えると、大きく分けて以下の2つの方向性があることになります。
1)「一つの明確な意味」をあらわさない
2)言葉が不透明化することで「黒子=手段」ではなくなる
「現代詩マニュアル(野村喜和夫)」という本で「詩学キーワード」として列挙されているものをこれに従って分類してみると、1)には「曖昧性・多義性」「アナロジーとイロニー」「イメージ」「隠喩と換喩」「引用・翻訳・間テキスト性」「寓意・寓話」「コノテーション」などが含まれ、2)には「音韻・オノマトペ」「音数律」「定型」「余白」「リズム」などが含まれる、ということになるでしょうか。

というわけで、なぜ詩はわかりにくいかの一点目は、「散文(性)では「ない」もの」というネガティブな形であらわされる方向性がきわめて多様かつ雑多なことにあるのではないかと思います。
(つづく。。。のか?)


★ライブ! 日本語ボサノヴァ三国志 其の拾

【日時】
2019年11月17日(日)19時〜
【場所】
カフェ ムリウイ
〒157-0072 東京都世田谷区祖師谷4-1-22 3F
【出演】
♪OTT(vo.g)
♪東輝美(vo.g)
♪heli(vo.g)
【料金】
♪1,500円(1ドリンク別)
※カフェ ムリウイのイベントページはこちら
※heliのFacebookページはこちら(よろしければこちらから参加表明してください)

2010年に始めた「日本語ボサノヴァ三国志」も、とうとう今回で10回目となりました。
思い返すと、むかしむかしOTTさんがやっていたオープンマイクイベント「そっとナイト」が2010年6月に終了したあと、その精神〜飄々としたユーモラスな自由、とでも言えばいいでしょうか〜として受け取ったものを私なりに継承(というと大げさですが)していきたいと思い、同年11月にOTTさんをお誘いして「日本語ボサノヴァ霜月ライブ」として始めたのがことの発端でした。
その後、途中から東さんを交え、名称も「日本語ボサノヴァ三国志」となりました。
「そっとナイト」の精神は、今なおユニークな価値を持ち続けていると信じています。
ぜひ、多くの方に見聞きしていただければと思います。


倒れるひと~「ボッサ・ポエトリー」の試み(「暮らしの音楽ライブVIII」来場御礼)

最後にブログ記事を書いたのが3月。またしてもすっかりさぼってしまいました。
何事につけコンスタントにやり続けることができないのが情けないところですが、それでも何とか復活することができるのは良いところだと無理矢理思うことにしよう。

ネタはいっぱいたまっているけど、まずは7/21に1年半ぶりに開催した「暮らしの音楽ライブVIII」。暑い中多くの方にお越しいただきありがとうございました。
また、5年ぶり2度目の参加ということで、素晴らしい演奏を聴かせてくれたレバさんクラモトキョウコさんにも改めて御礼申し上げます。今回のお二人の演奏は本当に絶好調という感じで、すごく音楽自体に引き込まれる感じがしました。

私のセットリストは以下のとおり。

1.月と桃
2.ハイビスカス
3.花火と子供
4.同潤会アパート
5.白い月
6.自然には、かなわない
7.あなたのいない世界で
8.倒れるひと(新作)
9.青空のかたち

今回初めて披露したのは「倒れるひと」。ボサノヴァスタイルのギターを弾きながら、自作の詩(歌詞ではありません)を朗読するという、自称「ボッサ・ポエトリー」です。
昨年4月から文月悠光先生詩の教室に通っているのですが、半年に一度「発表会」があり、自作の詩を朗読することになっています。で、私はギター弾き語りをずっとやってきているので、詩もギターを弾きながら朗読できないかと思って試してみたのがこのスタイルです。こういうのは今まで聞いたことがないので、いいんだか悪いんだか判断がつかないまま何の確信もなく取り組んできましたが、これまで人前で3回ほど演った感じでは、まずまずポジティブな反応があり、これって案外悪くないかも、という手応えのようなものを掴みつつあります。

以前にも書きましたが、「暮らしの音楽ライブ」は、ぜひ一緒にやってみたい!という音楽家が見つかって、オファーして、OKが出たら開催できるという、良い食材が入らなかったら店を開けられない料理屋みたいなものなので、次はいつになるかわかりませんが、ぜひ続けたいところです。
あと、もっと曲を作って録音してリリースしたいですね。まあ詩作に時間を取られているということもあるわけですが・・・。


倒れるひと

水の気配のする暗がりから
かすかに光が差し込む方へ
過ぎ去ったおびただしい歳月の
接触不良の曖昧な記憶が断続する

いつか住んでいた街の夜明け前
空洞のようなホテルの部屋で
一通のメールに不意打ちのようにさらわれて
どこでもない場所に宙吊りになってしまう

ひとが倒れるのは確率的な出来事
そんな頭痛が二日酔いのように脈打った

夜明けとともに冷たい曇り空が
ホルマリンのように侵食してくる
かすかな光はたわいもなく
いつわりの平穏にすり替わった

たくらみのないあなたの言葉が
死と区別のつかない眠りと
世界をつなぐ接点だったのに

鈍色のまま過ぎた季節の間も
いつからか忘却された言葉は
目に見えない水脈のように
流れ続けていたのかもしれないけれど

ゆるやかな淀みのような別れの時
何もない空間に眼差しは焦点を結ばない
あなたの言葉は形骸だけを残して
もはや届かないところにあるようだった

混濁した心を抱え込んだまま
仮借なく高まる水位を歩きつづけて
わたしもいつか倒れるだろう
そのときに一体何がわかるだろうか


吉田慶子さんのオープンマイク『canto』@カフェ・ムリウイに行ってきた

ここしばらく音楽を演るエネルギーが低調気味でした。
仕事が忙しい(当社比)こともあるし、夏バテもあるし、押し寄せる高齢もあるし。
音楽活動を途切れさせてはいけないと思って、ボサノヴァのレパートリーを増やすことに取り組んだりはしていますが、曲を作ったりライブやったりという気分にはなかなかならず、テンションが低いことは否めません。

そんな時、ライブ等でお世話になっている祖師ヶ谷大蔵のカフェ・ムリウイのイベントページに「オープンマイク『canto』」というイベントが掲載されたのを見かけました。
ナビゲーターは吉田慶子さん。
説明文にこんなことが書いてあります。

canto(カント)は、ポルトガル語で、歌。 そして、すみっこ、片隅のこと。 ひそやかに歌、音を楽しみ愛する方のためのちいさなオープンマイク、開催します。

これを見て思い出したのは、10年近く前に何度か行ったイベント「そっとナイト」のことでした。
「日本語ボサノヴァ三国志」でご一緒しているOTTさんがやっていたイベントで、とても雰囲気というか居心地がよく、それまで人前で演奏したことなどほとんどなかった私が何度かミニライブのようなことをやらせていただきました。
今改めて振り返ると、「そっとナイト」がなかったら今の私はない!というくらいかけがえのないイベントだったんですよね。

『canto』の説明を見た時に、これはもしかしたら「そっとナイト」のようなイベントかもしれない、と思いました。
大げさな言い方だけど自分の原点に立ち返ることができるかもしれないと思って、いつだろうと思って見たら、なんと明日だ!
どうする?
もちろん行く!

という感じで行ってまいりました。
感想ですが、ツイッターに

吉田慶子さんのオープンマイク「canto」@カフェムリウイはただただサイコーであった。あの場にいた全ての人々に溢れんばかりの感謝を。

と書いたとおりです。
吉田さんの人柄を反映してか、とても雰囲気が和やかでフレンドリーでした。みなさんの演奏はどれも素晴らしいのだけど、なんというかピリピリしたところが全然ないんですよね。
ほとんど(いや全部か)の方は面識なかったけど、演奏が終わった後いろんな方とお話しすることができてこれまた楽しかったです。驚いたのは、「そっとナイト」に参加したことがある方がいたこと。いやー奇遇ですね。びっくりしました。

次があったらまた行く!


詩の教室に通う

4月から詩の教室に通っています。

細々と音楽を続ける中で作詞作曲にも取り組んで来ましたが、自分の作る歌詞に少なからず不満があって、もうちょっとなんとかならないかなとずっと思ってました。
不満の内容を的確に説明するのは難しいのですが、例えば惑星のかぞえかたの曲の歌詞は、素朴な手触りながらも散文的な表現にとどまらない言葉の使い方を模索している感じがするんですよね。
この感じを「詩的」と言うのが適切かどうかわからないけど、何となく文学の詩を読んだ時の感じに近いような気がしていました。
それに引きかえ、自分の書く歌詞はどうしようもなく散文的というか…。

などといったことを漠然と思いながら過ごして来たある日。
NHK文化センター青山教室で開催された「生き延びるための言葉教室・第2講」なるイベントに参加しました。
出演は社会学者の岸政彦さんと詩人の文月悠光さん
岸さんのことは昔から知っていて(面識があるわけではありませんが)、最近は本業の社会学関係の著作も次々と刊行される一方で、芥川賞候補になった小説や故・雨宮まみさんとの対談本などなど八面六臂の活躍ぶりに、すごいなぁと思っていたので、このイベントのことをたまたま知ったとき、ほぉと思って深い考えもなく参加を申し込んだのでした。

一方、文月さんのことは実はあまりよく存じ上げなかったのですが、イベントの最中にNHK文化センター青山教室のチラシを見ていたら、「今夜は詩人!」という詩の教室を月1回開講していることを知り、詩の作り方を学ぶのもいいかもなーと思って、これまた深い考えもなく受講を決意。
申し込んだ後ほどなくして満席/キャンセル待ちになったので、タイミングもよかったようです。

というわけで教室に通い始めたのですが、初回こそオリエンテーションも兼ねてワークショップ的なこともやったものの、その後は前回までに提出した作品を先生と受講生で講評し合うという内容。
練習なしにいきなり詩を書くこととなり、金槌なのにいきなりプールに放り込まれるようなプレッシャーを感じましたが、一方でこういう創作って理屈をこねる前にまず何でもいいからとにかく形を作るのが結局は近道であるという話も随分と耳にしてきたので(逆に、あれこれ理屈をこねることが先行して結局は創作が軌道に乗らないというのもありがちな話のようですし)、四苦八苦しながらも何とかかんとか作品を作り続けています。徒手空拳で物を作り続けるのはなかなか精神力が必要とされますが、こういう教室に通っていると、締め切りのプレッシャーがいい意味で背中を押してくれるところがありますね。

というわけで、毎朝、職場近くのサンドイッチ屋で朝食を摂りながら、ちまちまと創作に取り組んでいます。
教室は半年単位ということで、いま受講しているのは9月までですが、10月以降も継続することに。
今後が楽しみです。