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北海道自家用車旅行番外編〜WEB本の雑誌連載「余市の人々。」

本の雑誌という雑誌があります。といっても詳しいことは全然知らなくて、そういう雑誌があるな、という認識を一応持っている程度です。本の雑誌社についてというページにいろいろ説明が載っています。1976年に椎名誠らが創刊。なるほど。

で、WEB本の雑誌の読み物/連載コラムに、なぜか余市の人々。という連載があるのです。執筆者の江部拓弥さんはdancyu web 編集長ということで、特に余市関係者ということでもなさそう。
なぜに余市?と思って連載第1回目を読んでみました。何度か余市を訪れるきっかけとなったエピソードはなるほどという感じなのですが、でもそれだけでこういう連載を始める理由として十分か?と言われると、よくわかりません。
江部さんは連載を始めたきっかけについて、こんなふうに書いています。

余市へ行くたび、思っていた。寂しさが漂っているのに、暗さがない。そう、余市は明るい町だと。日本全国いろんな土地に足を運んだけれど、何かが違う。なんだろう。なぜだろう。考える。考えた。けれど、ちっともわからない。
余市。おじさんの名前のような、どこかおかしみのあるユニークな名を持つ町で暮らす人たちは、何を想うのだろうか。余市の人々の話を集めることで、探していた答えが見つかるかもしれない。余市の「よ」がわかるかもしれない。話を訊いてみたい。それが「余市の人々。」のきっかけだった。

というわけで、どの回も面白いです。
たとえば連載一回目の塩田屋商店。何となく食料品を扱ってそうな屋号だけど、本屋さんです。なんと創業して約百年。さらに驚くのは、余市には他に2軒、塩田屋商店よりも古くからある本屋が今なお営業を続けているとのこと。百年前というと1920年頃だから、1911年生まれの左川ちかはまだ小学生。本別から余市に戻ってきた頃、もしかしたらこの店に立ち寄って本や雑誌を買ったりしていたんだろうか。なんだか頭がくらくらしてきます。
でも、記事の中身はいま現在の町の本屋のリアルな話。40年前に早川義夫の「ぼくは本屋のおやじさん」で読んだ書籍流通の問題点が今なお改善されないままアマゾンとの競争で苦境に立たされているという、日本全国共通の構図がここにもある、ということではありますが。。。
過去の景気がよかった時代の話もあり、衰退しつつある町の話という側面は厳然としてあるのだけど、でも最後に店の主人が一言、
「余市はまだまだいけるはずだよ。まだまだいけますよ」

・・・今回は番外編から本編に戻るつもりで、余市で泊まった駅前旅館「かくと徳島屋旅館」の話の前振りとして、この連載の4回目に取り上げられた。。。という話から書き出そうとしたら、旅館の話にたどりつく前にずいぶん長くなってしまったので、これも番外編とさせていただきます。本編に戻るのは次回からということで。


北海道自家用車旅行番外編〜左川ちか

今回の旅で余市を訪れた理由の一つとして、余市出身の詩人・左川ちかが生まれ育った風土を見たかったということがあります。これっていわゆる「聖地巡礼」ってやつでしょうか。いやはや。
同じ趣旨で2年前〜コロナ禍の直前〜にも余市を訪れているのだけれど、あのときは1月でした。もちろん冬は冬で趣があるし、左川ちかの作品にも冬の余市をモチーフにしたとおぼしきものはいくつかあって、どれも魅力的なのだけど、左川ちかの詩によく出てくる「過剰な緑」を感じてみたかったんですよね。。もっともそれが一番よく感じ取れるのはちょうど今くらい、5月末から6月にかけてで、GWだといささか早いのだけど。

ちなみに、旅行に出発する直前に、左川ちか全集が刊行されました。なんというグッドタイミング。
詩はもちろん翻訳やエッセイまで全て網羅した400ページ超の本が2800円+税。刊行後一ヶ月で3刷というのも頷ける充実ぶりです。
もちろん旅行にもお守りのようにして持って行きました。車の旅なので荷物が重くても関係ありません。もっとも旅の間はほとんど読みませんでしたが。。。

この労作をまとめ上げた島田龍さんは解説でこう述べています。

ノスタルジーやロマンティシズムといった叙情性とは程遠いクールで硬質な文体。でありながら観念抽象的な言語遊戯に陥らず、一般的なモダニズム詩には希薄な”私”という何者かの熱量をじかに感じた。

これはまさにそういう印象なのですが、これっていわゆる「荒地」の詩人たちが十数年後に戦争と向き合うことを強いられる中でたどり着いた境地に近いのではないかという気がしています。って、私が「荒地」の詩人たちの作品に(当社比で)なじみがあるが故の我田引水に過ぎないかもしれませんが。。。

たとえば、1930年代末〜左川ちかが逝去した数年後〜まだハタチになるかならないかだった未来の「荒地」の詩人たちが集った集会での出来事。

「ぼく(=三好豊一郎)は田村(隆一)君のような詩には、我慢ができない(中略)田村君のようなヘナチョコモダニズムは毒にも薬にもならないと思うんです。言葉の遊戯そのものだ。(中略)まるで「人生」というものがない。感情の深い洞察力も喚起力も、まるっきり見あたらないではないですか。この田村君は、いったいどんな気持ちで詩を書いているのでしょう。(中略)モダニズムのもっとも悪しき一面を、田村君の詩は露呈しています。ぼくは人間の魂が感じられないような詩を断乎として排すものであります。」(中略)八王子の青年(=三好豊一郎)の口からとび出した「人生」だとか「魂」という言葉は、まったく異様なひびきをもってぼくの耳をおそった。これまでに、「人生」だとか、「魂」という、浪花節語りか人生派の詩人の口からでもなければきかれないできた言葉がモダニズムの詩と関係があるとは、ぼくは夢にも思ってみなかったのである。
(中略)もうこの作品(=鮎川信夫「形相」)になると、日本モダニズムのまるで精神分裂症のような症状や、相手の分からない敵を追いまわしているようなサタイヤやイローニイの影はすっかり没してしまっている。(中略)三好青年の演説した「感情の洞察力」と喚起力とが、敏感な青年の感受性をとうしてありありと感じられるではないか。昭和十二年にボッ発した日支事変はいまやドロ沼におちいり、太平洋戦争にさきだつこと、ほぼ一年まえの作品である。(田村隆一「若い荒地」)

そして彼らから見た現代詩の見取り図は以下のようなものでした。

かつて木下常太郎氏は、現代の詩人を現実派、抒情派、主知派と大きく分類した。こうした分類は不正確だというそしりを一部から招いたが、今の詩壇の傾向を分類するには、これより仕方がないと思う。(中略)現代詩壇の前衛とされているこの芸術派と現実派の二つの流れは、おのおの現代的存在理由をもっているが、その存在理由は美学ないし世界観に根ざしたイズムの形をとっている。それだけに傾向として、一方に偏しやすく、その抒情を否定する論理も、末流になると詩の源泉的感情、奥底の動機というものを忘れてしまう場合が多い。しかし、優れた詩は知性的なものと感性的なものとが常に一致していなければならないものである。詩人の全存在を満たす言葉のバランスを見つけることが詩作の興味であり、詩人にとって最大の喜びなのである。成功した作品は、知的なものと状的なものが渾然と一体をなし、詩人の全投影が小宇宙を形づくり、生き生きとした言葉の秩序を形成しているものである。こうした場合、感性的要素はむろん大切なのであって、むしろ詩の知性的要素よりも強く読者の心に訴える力を持っている。優れた作品は、知性的な要素でさえ完成に訴え、また、感性的要素も十分知的であり得るのである。(中略)現代詩の世界では、古い抒情を排撃するけれど、それは恐らく詩人の感性が変化したためであろう。そして現代の詩人の感性に訴える新しい抒情詩というものが必ずある筈であり、ようやく反省期に入った現代詩そのものを、こうした麺から再検討してゆくことが必要であるように思われる。」(鮎川信夫「現代詩の分析」)

なんだか引用だらけになってしまって申し訳ないのですが、この方がよほど正確に伝わるような気がするので、こうさせていただきました。
最後に、黒田三郎の伊藤整評なぞ。

最後にひとつだけ、身にしみて感じられることを記しておきます。それはこの二冊の詩集(=雪明かりの路、冬夜)の書かれた時期のことです。大正時代の末に主として書かれ、僅かに昭和の初年に達して、それで終わっています。この時期には、アナーキズムやプロレタリアの詩が盛んになり、一方、ダダイズムやシュールレアリスムの詩も起こって来ました。昭和にはいると、それ以前の大正の詩とは断絶してしまった感があります。この断絶感のため、大正時代のすぐれた自由詩の伝統は、ほとんど次の世代に継承されることがなかったのではないかという思いがしてなりません。『雪明りの路』と『冬夜』をよみ直してみて、痛感するのはそのことです。ここに、大正時代のすぐれた自由詩の尾をひく、美しい詩があります。ところが、その作者は昭和のはじめになって、これを書きつづけることを止めました。僕が思うのは、はたしてそれは伊藤整という個人だけの問題だろうかということです。そこで、新しい激流に押し流されるようにして、姿を消したさまざまの詩の可能性があるのではないかというふうに思われてなりません。後年、この二冊の詩集が、作者伊藤整にとって年毎に大事に思われるようになった経緯を省みると、この時代そのものも、何か大事なものをひそめているような気がしてなりません。(黒田三郎「詩のあじわい方)」

実は、「断絶している」と思われた口語自由詩と現代詩のミッシングリンクが伊藤整→左川ちかのラインなのではないかと密かに思っていたりします。もちろん、そこには大きな飛躍もあったので、伊藤整自身を含め、乗り越えることはとても難しかったということなのだろうと思いますが。

あと、「荒地」の詩人たちが飛躍する上でのトリガーが「戦争体験」であったことは、いろいろな意味で大きかったんだろうと思います。グローバルな政治、社会、思想に対する強い問題意識を生み出す一方で、軍隊というホモソーシャルな集団での体験の共有が(たとえそれに対する反発であったとしても)生み出したものも後々まで尾を引いたのではないかという気がしています。


北海道自家用車旅行番外編〜余市という町

ところで、このブログを読んでいる人の間で、余市という町はどのくらいの知名度があるんでしょうか。

余市町は人口が2万人弱(ずいぶん減ったな)と、町としてはそこそこ大きい方だとはいえ、全国レベルで考えれば、同等以上の規模の市町村はいくらでもあります。
それでも、余市の全国的な(さらには世界的な)知名度は結構あるのではないかと思います。考えられる要因としては、

1.ウイスキー
テレビを見る習慣が無いので実感としてはよくわからないけど、やはり連続テレビ小説「マッサン」の影響が大きかったのかな。最近は日本のウイスキーの世界的な評価も高くニッカウヰスキー余市蒸溜所も今や有名な観光名所のようですね。一度蒸留所の見学ツアーに参加したことがありますが、製造工程や設備はもちろん、やはり年季と風格のある建物は一見の価値があります。

2.スキージャンプ
札幌オリンピックでの笠谷幸生(70メートル級)、長野オリンピックでの船木和喜(ラージヒル個人)、斉藤浩哉(団体)と金メダリストを3人も輩出しており、世界的に高い知名度があると言えると思います(まあ熱心なジャンプファンが多数いるのは中欧・北欧でしょうけど)。
ちなみにスポーツ分野では戦前に根上博という余市出身の水泳選手がベルリンオリンピックで入賞したり世界新記録を叩きだしていたりしていたのを最近知りました。

3.宇宙飛行士・毛利衛
余市出身の宇宙飛行士・毛利衛さんが日本人として初めてスペースシャトルに搭乗したのが1992年とのこと。もう30年前か。。。
ちなみに道の駅「スペース・アップルよいち」内に「余市宇宙記念館」があるようです。まだ行ったことがないので、次に余市を訪れた際には足を運んでみようかな。

4.モダニズム詩人・左川ちか
戦前のモダニズム詩人の詩は、西脇順三郎など一部の詩人を除いて詩集が入手困難だったため、左川ちかの認知度も低い状況が続いていましたが、数年前に英訳が海外で出版されたのを機に評価が高まり、日本でも先日とうとう「左川ちか全集」が刊行されるに至りました。実は今回の余市訪問も「左川ちか全集」出版を祝して敢行したようなところがあります。めでたいことです。

・・・といろいろ書いてきましたが、私にとっての余市というのはどういう町かというと・・・。
札幌に生まれ育った人間として、小樽・余市・積丹方面というのは、「夏休みに海水浴に行くところ」でした。とにかく楽しく遊ぶところというイメージですね。虫刺されや日焼けや混雑した列車・バスというマイナスイメージもありますが。
ただ、余市自体は遊ぶところではなく、「小樽から積丹に行くバスが通過する大きな町」という感じだったかな。子供の頃は乗り物酔いしやすく、ちょうど余市に着いた頃に一番ぐったりしていたように記憶しています。その後積丹の方に向かうと車窓から見える断崖絶壁の風景が素晴らしくて気分が快方に向かうのですが。

あと、小学校の社会科の授業で、余市や隣町の仁木は果樹栽培が盛んであると習った記憶があります。実際、ニッカウヰスキーが「大日本果汁株式会社」として設立され、ウイスキーが出来上がるまでの間リンゴジュースを製造販売していたのは、余市でリンゴ栽培が盛んだったことが背景にありました。ちなみに、左川ちかの生家もリンゴ栽培を行っていたようです。

だいたいそんな感じですが、最近私の中で余市に対する関心が高まってきたのは、やはり左川ちかの詩を生み出した風土とはどういうものだったのか知りたくなったということなんだろうと思います。そのあたりはおいおい書いていこうかと。。。


北海道自家用車旅行その14〜霧多布から余市へ北海道大横断

ペンション・ポーチ@霧多布での3日間の滞在もあっという間に終わり、次は余市へ向かいます。
距離は500㎞くらい。ひたすら一日中走ることになります。
まあ、今回わざわざフェリーで車を持ってきたのは、北海道を自分の車で思い切り走るため。
そういう意味では、本来の目的にかなっているとも言えます。

出発の朝、宿の部屋から外を眺めます。

行きも帰りも琵琶瀬展望台から霧多布にご挨拶。次はいつ来れるかな。。。

ひたすら一日中走るとは言っても、同じ道をただ戻るのは嫌なので、屈斜路湖のほとりにある三香温泉に立ち寄ります。
結構な遠回りになりますが。。。

三香温泉もすごく久しぶりだけど、相変わらずののんびりしたたたずまい。コロナ対策のため休憩室でまったりできないのは残念でしたが、仕方ありません。

三香温泉を出発したらそろそろ昼が近かったので、弟子屈で昼食。
なぜか何度も入ったことのある、そば処福住という店。普通に美味しいです。
実は最初、間違えて隣の店に入ったら、なんだか様子がおかしいので、変だなと思って周りを見回してようやく店が違うことを理解し、慌てて店を出たのだけど、あとで調べたらあれは弟子屈ラーメンという有名な店だったようで。。。
そのまま食べてくればよかったな。

食事も済んだら、いよいよ余市に向かってまっしぐら。写真も全く撮っていません。
弟子屈からは国道241号線、いわゆる「阿寒横断道路」を西進。最初はだだっぴろい平原を走る果てしなく真っ直ぐな道ですが、やがて山が迫ってきてつづら折れの峠道に。降ってきた雨は雪に変わり、げげっと思ったものの路面は積もったり凍ったりということもなく、まずまず普通に走れて安堵。

悪天候のため阿寒湖もオンネトーも通過し、足寄に到着。道の駅「あしょろ銀河ホール21」で一休み。立派な建物で(松山千春コーナーとかもあった。。。)車もいっぱい停まっていて、たくさんの人でにぎわってました。

足寄を出発したらすぐに道東自動車道に入ります。しばらく行くと釧路の方からの道と合流する本別ジャンクションに。本別には親戚が住んでおり、子供の頃に何度か遊びに行ったことがあります。そういえば最近全集が出た左川ちかも幼少時に家族と離れて本別の親族のところで過ごしていたとか。利別川沿いののどかな農村地帯ですが、雨降りでどんよりしていました。

あとは十勝平野を横切り、日高山脈を越えて、石狩平野へ。・・・と書くと、あまりにも端折りすぎのような気がしますが、道東自動車道だとほんと速いんですよね。日勝峠をえっちらおっちら越えていた頃のことを思うと隔世の感があります。

さらに千歳恵庭ジャンクションから道央自動車道に入り、札幌、小樽を抜けて、初めて走る後志自動車道へ。しばらく走ったらもう余市です。

真っ黒な雲の向こうの晴れ間から夕方の明るい陽光が強烈に射し込んで、なんだかすごい光景でした。


北海道自家用車旅行その13〜霧多布岬、アゼチの岬

根室からペンション・ポーチに戻る途中に、霧多布の市街地近くにある霧多布岬とアゼチの岬に立ち寄り。
霧多布岬は最近ラッコが見られることで有名らしいけど、私は残念ながら見ることができませんでした。

アゼチの岬。この界隈の島は皆、縁が垂直に切り立っていて、上面が真っ平らというプレート状の形をしています。