「ハーブ&ドロシー」という、ニューヨークの市井の現代美術コレクター夫婦に関するドキュメンタリー映画を見ました。ハーブ&ドロシーというのは夫婦の名前です。夫(ハーブ)は郵便局員、妻(ドロシー)は公務員で、ありふれたアパートに住んでいる特段裕福なわけでもないのに、どうしてトラック5台分もの現代美術のコレクションをなしえたのかというのが中心的テーマの一つなわけですが。
現代美術についてときどき感じていたこと(現代美術に限った話じゃないけど)。
作品を創っているときには無数の選択肢があって、その一つ一つをジャッジし決断を下さなくてはならないわけだけど、「これでいいのだ」とどのくらいの強さで思っているもんなんだろうと思ってました。アーティストが自らの作品について語るのを見るとき、とても強い自信に裏打ちされた主張力のようなものを感じることが多いのだけど、その自信はどこからくるのかな、と(ビジネスとしての必要性は当然あるわけだろうけど、それを差し引くとどうなのか)。
この映画には、ハーブ&ドロシーとアーティストとのやりとりがたくさん出てくるのだけど、そこで垣間見られるアーティストの表情は、思いのほか柔軟なものでした。もちろんアーティストは自分の考えを主張はするのだけど、一方でハーブ&ドロシーも同じくらい自分の(少なからずアーティストとは異なる)考えを主張する。アーティスト側はどうかというと、反発するでもなく(苦笑くらいはするにしても)耳を傾ける。時にはスケッチブックに書いた一連の作品(スケッチ?試作?)をスケッチブックから外してばらばらにしてみたり。
興味を持ったアーティストの作品を全部見る、という姿勢に象徴される、ハーブ&ドロシーの作品やアーティストに対する愛情・好意がアーティストに伝わるから、アーティストも鎧を脱ぐということなのかもしれないけど、完成品として堅固な姿になる前の、別な形にもなりえた可能性を感じさせる、柔らかく肥沃な土壌のようなものを感じました。そこは、普段はアーティストが独りのたうち回る泥沼なのかもしれないけど、ハーブ&ドロシーが一緒にいるとそれはどろんこ遊びのようなものになるのかもしれないな、などと思ったり。