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戦争末期の「台風の目」

先日、弥生美術館生誕100年 長沢節展というのを見に行ったら、解説にこんなことが書いてありました。

戦前から池袋の近くにアトリエ村(貸し住居付きアトリエ群)なるものがあり、アーティストが多数暮らし芸術活動にいそしんでいたらしいのですが(ウィキペディアを調べてみたけど、池袋モンパルナスなどと呼ばれていたようですね)、戦争末期に空襲警報が発令されても長沢節(や周囲のアーティスト)は防空壕に入らずダンスパーティーに打ち興じていたとのこと。

そういえば、最近読んだ鮎川信夫の「凌霜の人」というエッセイには、こんなことが書いてありました。

私は傷痍軍人の特権で毎日ぶらぶらしながら、暇を持てあますと、釣り竿をかついでアマゴやウグイを釣りに川に出かけていた。今から思うと、このときが生涯で最ものんきな時期だったような気がする。

これも戦争末期。ただし場所は疎開先の岐阜県の山奥ですが。

ついでに長岡鉄男の「落ちこぼれの音楽」というエッセイ。大学受験にことごとく失敗した後のことがこんなふうに書かれています。

ぶらぶらしているわけにもいかないので、超三流の特殊学校に入ったら、これが学校とは名ばかり、実は東大航空研究所の少年実験工(実験器具の準備、測定、計算などの手伝い)を集めるための餌だった。特に昭和十九年。幸か不幸か、戦争の真っ只中で、一般人よりはずっと情報が入る環境にあって、傍観者の立場で、プラスチックのパイプの空気を抜くとどこから凹み始めるか、なんていう浮き世離れした、いい加減な実験をのんびりやっていたわけで、落ちこぼれの極致というか、極意というか、今考えてもお伽噺かSFの世界のような不思議な生活だった。あるいは台風の目の中にいたのかもしれない。

そういえば、村上春樹の「遠い太鼓」にも、ドイツの強制収容所が楽しかったと述懐するイタリア人のじいさんが出てきたな。

もちろん、戦争末期がのどかな時代だったなどと言いたいわけではありません。
この台風の目のような世界は、戦争末期という時代にあっては稀なケースだったのかもしれないし、そもそも地獄と隣り合わせではあります。
アトリエ村に爆弾が命中したら、防空壕に逃げていない長沢節ほかダンスパーティに打ち興じていた人はひとたまりもなかっただろうし、鮎川信夫は病院船の乗り継ぎが一つでもうまくいかなかったら東南アジアのどこかで骨を埋めることになっていたかもしれないし、長岡鉄男の穏田(現在の原宿の近くらしい)の借り家は空襲で灰になったとのことだし。

ただ、(どんな時代でもそうだけど)戦前・戦中の具体的な話をいろいろ読んでいくと、なんだか一つの見方というか文脈というか世界観にうまくおさまらない多様性・むらのようなものがいろいろ出てきて、面白いというか困惑するというか。


近所の本屋が最近なんだか面白い

私が住んでいる、ごくありふれた首都圏郊外の私鉄沿線の駅の近くに書店があります。
いくつか支店のある、それなりに大きな書店ではありますが、そうはいっても住宅街にある書店なので、まあ一般的な品揃えではありました。

これが、少し前に全面リニューアルして、なんだか様子が変わってきました。
最初は棚の場所が入れ替わっただけだろうと多寡を括っていたんですが、よく見ると、以前にはなかったような本がちらほら目に入ります。
例えば、エッセイのコーナーを見ていたら、「渋谷のすみっこでベジ食堂」という本を発見。
著者の小田晶房って、yojikとwandaのCDを出しているレーベルCOMPARE NOTESをやってる人じゃなかったっけ。
びっくりして思わず買ってしまっただよ。

最近は、小説とかエッセイとかの棚に詩歌のコーナーを発見。
こんなコーナーあったっけ?と思いながらつらつら背表紙を見ていたら、「鮎川信夫 橋上の詩学」という本を発見。
またまたびっくりして買ってしまいました。
いろいろなエピソード満載の本で興味深く読んでいます。
・ティーンエイジャーだった鮎川や森川義信が最初期の詩を投稿していた「若草」は、少女雑誌から派生した文芸雑誌だったとのこと。竹久夢二や東郷青児が表紙を描いていたとのことなので、なんとなくどんな雑誌か想像がつきます。これらの詩(森川義信の「春」とか)を読んで、なんだかかわいらしくも麗しいなぁと思ってましたが、なんだか納得。
・加島祥造のインタビュー。なんか加島祥造という人には、いろいろなシチュエーションで出くわしている気がしますが(老子とかポーとか)、なんでこの人が荒地同人だったのか、いまひとつぴんとこないところがありました(なーんて偉そうなこと言えるほど荒地のことも加島祥造のことも存じ上げないのだけど)。なので、

みんながあまりに深刻がった言葉ばかりを使っているから、そうではない、ライト・ヴァース的なものがもっとあってもいいんじゃないかと思った。

という言葉を読んで、ああやっぱり、と思ったり。
・80年代の吉本隆明との論争の部分はあまりよくわからなかったけど(たぶん端折って生煮えになっているんだと思う)、たとえばソーカル事件のようなものを経てPost Truthな時代に直面している身には、鮎川の「一元論」というのは何となくぴんとくるものがあるようなないような。いろんな意味で「『モダン』であるということ」を改めて考えたくなってみたり。

あと、こういう本で引用されている詩を読むのが好きです。
いわゆる詩集って、詩がいっぱい載っていて、いつもトゥーマッチな感じがするんですよね。
一度に出会う量はもっと少ない方がいいと思う。
(少しずつ読めばいいんだけど)

 


グーグル翻訳の謎なクオリティ

グーグルの翻訳のクオリティが飛躍的に向上したという話を聞きつけて、いろいろ試してみたところ、総じてクオリティは上がっているように思われるんですが、一方これまでにはなかったような問題が出てきているように見受けられます。

例えば、BBCのニュースで見かけた以下の英文を訳してみます。

■英文
18 April: It emerges the US Navy strike group was not heading towards North Korea when US officials suggested it was.
■グーグルの訳文
4月18日:米国の当局者が北朝鮮の核兵器保有国であることを示唆した。

・・・質が高い低いのレベルではありませんよね。一体どこからその文を持ってきたのか?という感じです。

自動翻訳は、私のように英文の読解力があまりない人が、短時間で情報を収集するために使うわけで、いちいち内容を検証するわけにはいかないので、これでは困るんですよね。

ちなみに、もう一度翻訳のトップページを読み込み直して、改めて例文を入れて訳してみると、、、

■新しい訳文
4月18日:米国の当局者がそれを示唆したとき、米海軍の攻撃団が北朝鮮に向かっていないことが明らかになった。

・・・直っている。
さっきの訳文はいったい何だったんだ。

※追記
もう一度試してみたら再現しました。
BBCニュースの元記事の下の方に「Timeline of recent tensions」というのがありますよね。4/8から4/23までの文章をまるごとコピペして翻訳してみると、4/18のところに先ほどのおかしな訳文が現れました(これもそのうち直るのかな)。


ノルディック世界選手権の女子スキージャンプを見た。

スキージャンプって、特定の試合で結果を出すのが難しい競技だなと思います。

例えば、90年代後半に、スロベニアにペテルカという選手がいました。
1996/1997と1997/1998の2シーズン連続でワールドカップ総合優勝しているので、当時最強の選手だったと言えるでしょう。
でも、ちょうどその頃に開催された長野オリンピックをはじめ、オリンピック、世界選手権いずれも個人では優勝はおろかメダルも取ることはできませんでした。
ちなみに長野ではノーマル、ラージで船木ソイニネン(フィンランド)が個人の金銀メダルを分け合ったけど、二人ともワールドカップで総合優勝したことはありません。

3シーズンもワールドカップ総合優勝しているゴルトベルガー(オーストリア)も、オリンピック、世界選手権で個人では優勝することはできませんでした((追記)フライング世界選手権は勝っているのか・・・)。

かと思うと、オリンピックでラージ・ノーマル2冠を2回も達成しているアマン(スイス)みたいな人もいます。
いや、アマンはワールドカップ総合優勝の経験もあるので、実力に見合わないということはないのだけど、でも同時代にはハンナバルトやらマリシュやらシュリーレンツァウアーやら、強豪のライバルがぞろぞろいたわけで。
おかげで、マリシュなど4シーズンもワールドカップ総合優勝しているのにオリンピックでは金メダルを取ることができなかったという(世界選手権はいっぱい勝ってるけど)。

というわけで、高梨が優勝できなかったのも、フォークトがここのところ世界選手権とオリンピックを総なめしているのも、スキージャンプの世界では不思議なことではないと思うんですよね。
とはいえ、選手は皆、この場に全てを賭ける、という気持ちで臨んでいるのだろうから、「こういう競技なんだから仕方がない」などと言うのも憚られるのだけど。。。
むにゃむにゃ。


良い本を書いたり紹介したりしてくれる方々

読みたい本、読むべき本は山ほどあって、とても全部読むのは無理です。
それなりに忙しいし、やりたいことは他にもいろいろあるし、そもそも本を読むのはあまり速くないし。
というわけで、読む本を絞り込むことになるわけですが、その際に「この人が書いたり紹介したりする本は参考にする」という人が何人かいます。
前回の投稿でも言及した濱口桂一郎氏や池内恵氏は、そんな人たちのひとり(ふたりか)です。

濱口氏のことを知ったのは、10年くらい前にIT業界などで問題になっていた偽装請負の問題に仕事で関わったときです。
「偽装請負」という言葉を分解すると、「請負でないもの(労働者派遣など)が請負であるかのように偽って装うこと」ということになるでしょうが、では請負と請負でないものを区分する基準は何か。
これは労働省告示第37号「労働者派遣事業と請負により行われる事業との区分に関する基準」ということになるわけですが、ここで「労働者派遣事業でも請負でもないものの扱いはどうなるのか」という疑問が生じます。
IT業界でふつう「請負」というと民法の典型契約としての「請負」のことを想起しますが、IT業界で行われている契約はそれ以外にも典型契約では「(準)委任」がありますし、典型契約ではないものはいっぱいあるはずでしょう。
なのに、労働省告示の名称は、まるでこの世に労働者派遣か請負しかないかのようです。
それ以外の契約は一体どういう扱いになるのか。

さらに、当時偽装請負が話題になっていた分野に、「業務請負」があります。工場とかの構内作業に人を送り込む業態ですが、これはどう考えても仕事の完成を目的とする民法的な「請負」とは違う。

どうも、民法的な請負とは違う請負が労働の分野にはあるようだと、薄々思うようになったのですが、ではなんでそんなことになっているのか。
疑問に思ってすこしずつ調べてみましたが、両者を混同するような解説が多くて、なかなかわからない。

そんな中で出会ったのが濱口氏のサイト「hamachanの労働法政策研究室」でした。
たとえば「請負労働の法政策」という論文にこんなことが書いてあります。

1890年の旧民法では、請負と雇傭の区別は、前者が予定代価で労務を提供する(第275条)のに対して、後者は「年、月又は日を以て定めたる給料又は賃銀」(第260条)を受けて労務を提供するという報酬形態の違いに過ぎなかった。これが1896年の現行民法制定時に変化し、雇傭は「労務に服すること」、請負は「仕事を完成すること」を目的とする契約類型であると整理された。ところが、これは民法上の概念整理であって、世間では依然として広い意味の「請負」という言葉が用いられ続けていたし、他の法律では別の用法が生き残った。現行民法に続いて1899年に制定された現行商法は、その第502条で、営業的商行為の類型として「作業又は労務の請負」を挙げている。予定代価で他人の労務を提供する契約は商法上は請負契約なのである。

もうどんぴしゃりの回答という感じ。
もちろん、民法と労働法や商法で請負という言葉の意味が異なっているというのは困ったことですが、とりあえずそのことを知っておけば混乱しないで済みます。

ちなみに大学の時に受講した「北海道経済史」の授業で出てきた「場所請負」(松前などの漁場での漁労を請け負うこと)も、そういう意味での請負なんだなあと遠い目になってみたり。

というわけで、以後濱口氏の発信する情報に注目するようになりました。

最近だと、働き方改革と称して36協定の上限規制とかインターバル規制とか同一労働同一賃金とかが話題になってますが、どれも以前から濱口氏の本で取り上げられていたものばかりです。
いったいこれらの論点はどういう文脈にあるのかを知りたければ、濱口氏の本(たとえば「働く女子の運命」とか)を読むのが良いと思います。

池内氏はISが台頭した際に、ネットや書籍・雑誌やテレビで非常に有益な解説をされていたので、注目するようになりました。
最初に読んだのは「イスラーム国の衝撃」ですが、最近の「【中東大混迷を解く】 サイクス=ピコ協定 百年の呪縛」もとても面白かった。
複雑怪奇な中東の歴史や情勢を丹念に解き明かしつつ、クリアな整理をしてくれています。もちろん、それは単純な処方箋があることを意味するわけでは全くありませんが。

そういえば、ときどき紹介しているfinalvent氏は「トランプ」というワシントン・ポストによる評伝の書評を紹介していたので、さっそく買って読んでます。

良い本を書いたり紹介してたりしてくれる方々に改めて感謝。
というか、次は出雲旅行記の続きを書きます。