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サンバがよくわかんない

ボサノヴァを聴いたり読んだり弾いたりするようになってから、どうも気になっていたのが「ボサノヴァはサンバの一種」という言葉です。

サンバ?サンバって、あのカーニバルで露出度の高いお姐さん方が腰を振りながら町を練り歩いていくバックで演奏される、打楽器の洪水のような音楽でしょ? それがあの静かでシンプルなボサノヴァと何の関係があるん?

というのが最初の印象でした。

その後、細々とCDを聴いたり本を読んだりしていくうちに、サンバにもいろいろあるということがおぼろげながらわかってきました。あと、「最初のサンバの曲」と言われるものが存在すること、それも1917年にレコードとして発売されたものであることも驚きでした(Wikipediaにもありますが、ドンガ&マウロ・ジ・アルメイダ作“Pelo Telephone”という曲だそうで)。サンバって、もっと昔に自然発生的に発生した音楽のようなイメージがあったので。とはいえ、音楽スタイルって無から有が生まれるように生まれるわけではなく、長年の音楽的伝統を肥やしに出現するものだろうとは思いますが。

というわけで、サンバに対するイメージは確かに変わったのですが、じゃあサンバってなんだ?と問われたら、今でもうまく答えられません。でも、それは「ロックとは何か」という問いにうまく答えられないのと同じかというと、何かが違うような気がします。でもじゃあ何が違うのかというと、それもよくわからない。でも(「でも」の三連発)ジャンルにはしばられたくないけどジャンルという考え方が無意味とも言いたくない(ジャンルって音楽の伝統というか歴史的文脈と紐づいたスタイルということだと思うので)。

というわけで、サンバについては、適度に意識しつつ、慌てず騒がず、ぼんやりとつきあっていく所存です。


「ボサノヴァの歴史」を読んで(その4)〜出張

小中高校の頃の地理の授業で(というか地図帳を読んで、というほうが正確かも)仕入れたブラジルに関する知識が五月雨式に思い出されてくるわけですが、その中にブラジルで人口の多い町はどこか、というのがあります。一番がサンパウロで1000万人くらい(以上)、二番がリオデジャネイロで600万くらいだったように記憶しています。Wikipediaを見たら、今もあまり変わってないみたいですね。一方、日本はもちろん東京が一番で840万、二番が大阪で300万くらいでした(今では大阪の人口はだいぶ減って、二番は横浜ですが)。私の印象は、サンパウロはともかく二番目のリオが600万とはずいぶん多いなということで、ブラジルではサンパウロとリオの関係ってどういう感じなのかな、東京と大阪みたいな感じなのかな、などと漠然と思ってました。いまgoogle mapでサンパウロとリオの直線距離を測ってみたら、だいたい360キロくらいですね。東京からの距離でいうと、だいたい京都くらいなので、やはり関東と関西のような距離感覚ということのようです。

「ボサノヴァの歴史」によれば、chega de saudadeがヒットしたころ、サンパウロのテレビ局「TVパウリスタ」で「オ・ボン・トン」という生放送の番組があり、司会はジョビンで、ヴィニシウスやボスコリも頻繁に出演していたとのことです。もちろん彼らはリオに住んでいたので、出演するたびにリオからサンパウロへと出張することになるわけですが、ジョビンは飛行機で、ヴィニシウスは汽車で、ボスコリはバスで、それぞれ移動していたのこと。東京から大阪までの出張と考えると、まぁ確かにどれもありだよないう感じですが、もちろん当時の交通機関なので、例えば飛行機なら「彼(ジョビン)は飛行機恐怖症を克服した。あの当時のコンステレーション機に毎週欠かさず乗り、しかも同じ人間でいられる者など、他にはいなかった」ということですし、汽車ももちろん新幹線のようなものがあったわけではないので、在来線でとろとろ行く感覚だったでしょう。割と最近まで走っていた寝台急行「銀河」に乗ったことがある人はそれをイメージすればいいかも(私は乗り損ねました)。あと、バスで大阪と東京を往復というと、どうも最近のyojik(東京在住)とwanda(大阪在住)がライブのたびにバスで行ったり来たりしていることをふと連想したりもして。


「ボサノヴァの歴史」を読んで(その3)〜転勤

私が生まれ育った札幌は、ただでさえ支店経済の町である上に、近所には社宅や官舎がたくさんあったので、小中高校時代は、親の転勤に伴い転入してきたり転出していったりする生徒がクラスに何人もいました。

なので、「ボサノヴァの歴史」のプロローグに、ジョアン・ジルベルトがティーンエイジャーだったころ、おそらく同じくらいの年のイエダという「町一番の美人」がいて、「公務員だった彼女の父親が、故郷のリオ・グランデ・スルから転勤させられてきた」などと書いてあるのを見ると、なんとなく子供の頃のことを思い出して親近感が湧くというかリアリティを感じたりしたんですよね。「ブラジルにも転勤があるのか」なんて。そりゃ転勤なんてあって当たり前かもしれないけど、でもブラジルの転勤のことなんて考えたこともなかったわけで。

ところで、リオ・グランデ・スルからジュアゼイロってどのくらい距離があるんだろうと思ってgoogle mapで計ってみたら、だいたい2500キロくらいでした。札幌からだとだいたい宮古島くらいまでの距離です。さすがブラジルはでかいといえばでかいのだけど、一応日本国内でイメージできる範囲の距離感であるとも言えます。那覇支店から札幌支店に転勤というような感覚でしょうか。

ついでにもう一丁。ジョアン・ジルベルトが風呂場にこもってギターの練習に没頭し、ボサノバ奏法を編み出したという逸話がありますが、その風呂場があったのは、ジョアン・ジルベルトのお姉さんが夫婦で住んでいたミナス州ヂアマンチーナの家だったとのこと。なんでそんなところに姉夫婦がいたかというと、夫が「道路建設技師で、フリーウェイ建設のため、その町に派遣されていた」ということだそうで。ブラジルでは1950年代半ばにフリーウェイが建設されていたのか。日本で最初に高速道路ができたのは1963年ですから、ずいぶん早い印象です(Wikipediaを見ると、日本が相当遅かったということらしいですが)。当時ブラジルは高度成長期を迎えていてインフラ整備が積極的に行われていたということを後で知りましたが、国の財政力という面でも車の普及という面でも、私が想像する以上に進んでいたことがわかりました。
あと、姉夫婦がヂアマンチーナに派遣される前はどこにいたのか知らないけど、仮にリオとかサンパウロとかだとしたら、お姉さんはジュアゼイロ→リオ→ヂアマンチーナと移動しているということですよね。感覚的には札幌で生まれて東京に出て結婚して、新潟に転勤、みたいなイメージなんでしょうか。やっぱり日本の転勤族とあまり違わないような気がして、なんか親近感を覚えたのでした。


「ボサノヴァの歴史」を読んで(その2)〜ジュアゼイロの気候

前回のエントリーで昔ブラジルについて抱いていたイメージや知っていたことを列挙しましたが、いくつか書き忘れたことがありました。
・ウジミナス製鉄所
・南米で唯一ポルトガル語が使われている国
・混血(メスティーソ、ムラートなど)
これらはいずれも、中学や高校の地理の教科書や副読本などで知ったことがらです。地理は好きな学科で、暇なときには地図帳を眺めて楽しんでいるような子供だったので、知らず知らずのうちに頭に入ったんですよね。

そんなわけで、「ボサノヴァの歴史」のプロローグにジョアン・ジルベルトの生まれ故郷のジュアゼイロという町に関する話が書いてあるのを読むと、ついつい「ジュアゼイロってどこにあるんだろう」と思って地図帳を広げたりするわけです。

バイーア州の州都サルヴァドールからは結構遠い内陸の町ですね。というより、サォン・フランシスコ川を東から西へとさかのぼったところにある町という方が現地の地理感覚的にはしっくりくるんでしょうか。
地図帳をぱらぱらめくっているうちに、たまたまケッペンの気候区分の図が目に留まったので、ジュアゼイロのあたりってどんな気候なんだろうと思って見てみました。

ブラジルの気候区分は大雑把に言って、北部はA(熱帯)、南部はC(温帯)ということになろうかと思いますが、唯一ジュアゼイロ周辺だけがB(乾燥帯)なのがわかります。
「ボサノヴァの歴史」を見ても、ジュアゼイロの気候について「熱さは地獄の沙汰」「(風があるときは)埃を噛みしめることになった」「町は砂地にあり、サボテンまでが慰めに汗をかいていた」と書いてありますが、こういう気候は広大なブラジルでもかなり特殊な部類なのかもしれません。
ちなみに、B(乾燥帯)という気候区分は、E(寒帯)とともに「樹木が生育できない」気候区分とされています。ジョアン・ジルベルトがティーンエイジャーの頃、町の中央広場のタマリンドの木の下でギターを弾きながら歌っていたというエピソードが紹介されていますが、その木はやはり「ジュアゼイロではまれな樹木の一本」だったそうです。中央広場の写真を見ると、街路樹らしき感じのようには見えますが、これは相当無理をして植えているということなのかもしれません。


「ボサノヴァの歴史」を読んで(その1)

「ボサノヴァの歴史」を読んで、もちろんボサノヴァに関する知識は飛躍的に増大したんですが、それ以上にブラジルという国に対するイメージが変わったように思います。

子供の頃から自分がブラジルについて知っていたことや抱いていたイメージってどんなもんだっただろう?と思い起こしてみると、

1.昔、日本人がたくさん移住した国(農業)
2.コーヒーの産地
3.カーニバル&サンバ(この2つは不可分のものとして認識)
4.アマゾン(ジャングル、原住民・・・)
5.サッカー(ペレ)

といった感じでしょうか。第三世界の旧植民地諸国に対する典型的な先進国的(に偏った)知識という感じではありますが・・・。

その後、1980年代にボサノヴァという音楽を意識したとき、その洗練されたたたずまいに魅了されながらも、ブラジルに対するイメージが上記のようなものだったため、「この音楽はブラジルのいったいどういうところから出てきたものなんだろう?」当惑していたのを覚えています。

同じ1980年代、日本でF1人気が高まり、レースに特段の興味のなかった私も報道でレーサーの名前を目にしたりするようになったことがありました。当時を代表するレーサーといえばアイルトン・セナの名前は必ず上がると思いますが、セナがブラジル人であることを知ったときも、自動車レースとブラジルのイメージが頭の中で結びつかなかった上に、セナの風貌は明らかに白人だった(ように思えた)ため、ブラジルに対するイメージはさらに混乱したのでした。(続く)