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北海道自家用車旅行番外編〜冬の余市(2020年1月)

今回余市についていろいろ書く上で、2年前の1月に余市を訪れたときのことをどう書いていたっけ?と思って過去記事を見返していたら。。。

書 い て な い が な

ということで、またまた番外編で恐縮ですが、2年前の写真や動画を蔵出しします。

左川ちかの詩に出てくる余市の自然で印象的なのは、初夏(5月末から6月)の緑と、冬の海ということになるのではないでしょうか。
今回の旅行では前者(GWなのでちょっと早いけど)を、2年前には後者を見たということになります。
もっとも、「海の捨子」「海の天使」などの詩や「冬の日記」などの散文に出てくるのは、「ごんごん音をたて」「真っ白いしぶきがまいあが」る、冬の荒れた海ですが、私が訪れたときは天気は良く、風もあまりなくて、とても穏やかな海でした。まあ、居心地がいいのは圧倒的にこちらの方ですね。というか、海がしけているときに砂浜を散策するのは自殺行為です。

というわけで、砂浜で撮った動画なぞ。
最初は東向きからスタートし、徐々に北に向きを変え、途中ややフラフラしながら最後は西向きになります。
最初に左手の遠くに見える岬はたぶん忍路のあたり。伊藤整の小説に出てくる地名ですね。私も子供の頃夏休みに二度ほど親に連れられて遊びに行きました。
最後に西の方には余市の市街地の向こうに雪におおわれた山々が見えます。左川ちかが「山脈」で

冬のままの山肌は
朝毎に絹を拡げたやうに美しい

と表現しているのは、たぶんこの山々なのかな。
それにしても、こんな穏やかな冬の海を見ながら、だれもいない砂浜で独りぼーっとするのは最高です!

ちなみに、この砂浜の近くに鶴亀温泉という日帰り温泉があって、海風で冷えた身体を温めるのにもってこいです。

最後は写真をあれこれべたべた貼っておきます。

■塩谷駅。子供の頃、蘭島駅で降りたことは何度もあるけど、塩谷駅で降りるのは初めて。塩谷の集落は海に近いところにあるけど、駅は山の中。

■伊藤整文学碑。海を望む見晴らしの良い高台にあり、碑には「海の捨児」の詩句が刻まれています。

■海沿いの国道5号線まで降りて、余市方面に行くバスに乗車。桃内・忍路から積丹方面へと続く美しい断崖絶壁がフロントガラス越しに見えて、気分が一気に盛り上がります。
んが。塩谷から忍路までの道路は断崖絶壁の海沿いを走っていたように記憶しているのですが、今はトンネルだらけの区間になってました。

っと、YouTubeを検索したら、トンネルができる前の旧道を(たぶんドローンで)空撮した動画が! いやー何でもありますねYouTube。いかに風光明媚な道路だったかわかります。まあ、こんなに海の近くだと、それこそ「ごんごん」音を立てるほど時化たらたちまち通行止めだったはず。

■函館本線(山線)の踏切。右に行くと動画を撮った砂浜(や鶴亀温泉)に、左に行くと左川ちかの生家(と林檎園)のあった登町に通じます。

■余市の市街地近くにある葡萄?畑。すいません、植物にはうといもので。。。

■ニッカウヰスキー余市醸造所でウイスキーとシードルを試飲し、観光客っぽく〆。

【追記】
このときの余市訪問をネタに、某所で書いた詩を上げておきます。

真っ白に輝く遠い山並みは
青空の表面にハイライトを入れ
薄茶の砂はゆるやかなドレープを描き
群青の海は白いレースをまとう

この誰もいない海岸に
限りなく広がるうつくしい方角を
身体は魚眼レンズのように
溢れても溢れても取り込み続けた

冬の北国の海といえども
いつも灰色に塗りつぶされているわけではなく
まぶしい光の日には
裸の樹木や海食崖さえも
隠されたテクスチャーを露わにする

天気予報の悪戯のせいで
当てが外れてしまったけれども
握りしめた切符に導かれたならば
あとは静かに向き合えばよい

こんなにも透き通った海と空に
ただ眼を閉じて身体をゆだねれば
魂の最後のひとしずくまで希釈されて
悼む言葉もないまま風に葬られる


北海道自家用車旅行その16〜余市・小樽間の鉄道に乗る

今回は自家用車旅行なので、鉄道やバスに乗ることは基本的にはないのですが、余市と小樽の間の鉄道だけは乗ろうと思ってました。
最大の理由はもちろん、北海道新幹線の札幌延伸に伴い並行在来線である函館本線の小樽・長万部間(いわゆる「山線」)の廃止が決まってしまったことです。

私が子供の頃(もう半世紀も前のことです)、札幌・函館間のメインルートはすでに千歳線・室蘭本線(いわゆる「海線」・・・ってあまり言わなかったような。私だけ?)であり、山線はローカルな扱いでした。
千歳線・室蘭本線の方が距離は長いものの平らで真っ直ぐな区間が多いため所要時間は短く、室蘭や苫小牧など大きな町もたくさんあるので、まあ当然だとは思います。
それでも、まだ優等列車はそれなりに走っていました。中学校に入学する直前の春休みに家族で東京の親戚のところに行ったとき、帰りの函館から札幌は特急北海に乗りましたが、これは山線回り。
大学の頃に東京に遊びに行くときや、東京に就職したあと青函トンネルが開通する前は、札幌・函館間はもっぱら急行ニセコを使ってましたね。海線回りの急行すずらんの方が本数も多かったのに。
あと急に思い出したけど、小学校の頃、家族で有珠に海水浴に行ったときのこと。帰りになぜか伊達紋別から札幌まで循環急行(札幌発札幌着ということです)いぶりに乗ったことがありました。

個人的には、殺伐とした工業地帯(ばかりではないけど)の海線より、緑豊かで風光明媚な山線の方を圧倒的に好んでいたことは確かです。
が、それは要するに過疎地域ということでもあります。
小樽を過ぎたら長万部まで「市」がないんですよね。
「函館本線」と名前は立派ですが、実態はローカル線そのものでした。
北海道には他にもっと収支が厳しい路線があるではないか、とか、特に小樽・余市間は通勤通学路線として大いに利用されている、とか、いろんな論点はあったようですが、廃止が事実上確定したと報じられている以上、できることは廃止されるまでの間にせいぜいたくさん乗っておくことくらいなのかなという気もします。。。

というわけで、宿の朝食までの間、朝の散歩のように余市と小樽の間を往復してきました。

宿の部屋から見た余市駅前。

余市から小樽までの鉄道の前面展望。左川ちかの散文詩「暗い夏」には、この鉄道で通学していた頃の記憶が遺されています。

・・・少女の頃の汽車通学。崖と崖の草叢や森林地帯が車内に入って来る。両側の硝子に燃えうつる明緑の焔で私たちの眼球と手が真青に染まる。乗客の顔が一せいに崩れる。濃い部分と薄い部分に分れて、べつとりと窓辺に残こされた。草で出来てゐる壁に凭りかかつて私たちは教科書をひざの上に開いたまま何もしなかつた。私は窓から唾をした。・・・

30分弱で小樽に到着。

とんぼ返りで余市に戻ってきました。


北海道自家用車旅行その15〜かくと徳島屋旅館

余市や小樽の市街地の宿に泊まったことはありませんでした。
以前に書いたとおり、札幌に生まれ育った私にとっての余市や小樽って「子供の頃、夏休みに海水浴に行くところ」だったんですよね。
いきおい、宿も海水浴場に近いところ、ということになります。
忍路(おしょろ)の民宿とか、美国(びくに)や野塚の旅館とか。
大学のときには、野塚の海岸でテント張ってキャンプをしたこともあったな。海は素晴らしくきれいだったんだけど、めっちゃ蚊に刺されて死ぬほどかゆかった記憶が。。。
いずれにしても、はたちになる前のことです。

というわけで、余市に泊まるのは今回が初めてです。

宿はかくと徳島屋旅館という駅前旅館。
前回書いたとおり、余市の人々。という連載記事に紹介されていたのを見て知った宿です。
とても面白い記事ですが、泊まりたい!と思った重要なポイント(の一つ)はやはり料理が美味しそう!だということ。
ご主人が京都で修行した腕を振るって〜そもそも単なる宿ではなく、宴会や仕出しまで手がける料理がメインの旅館だったようです〜地元の魚や野菜をふんだんに使った料理を食べさせてくれる。お酒も地元のワインやシードルがある。
いいですよね〜。

この、水産業と農業の両方を兼ね備えているというのが、余市の独特なところだと感じています。
周辺の町を見ると、小樽や古平、積丹は水産業は盛んでも平地が少ないので農業はあまり行われていないのではないかと思います。一方、仁木や赤井川は内陸で水産業がありません。
しかも、余市の農業の特徴として果樹栽培が盛んなことがあります(小学校の頃、社会科の授業で習うくらいです)。余市町のウェブサイトに20年近くにわたって連載されている余市町でおこったこんな話〜これがまた興味深い話がてんこ盛りなんですよね。あまりにも膨大なのでまだ全然読めていませんが〜のその17「リンゴ」によれば、余市でリンゴ栽培が始まったのは126年前とあります。2005年の記事だから、1879年ですね。最近では平成23年に「北のフルーツ王国よいちワイン特区」として認定されたりしているようです。
こうしてみると、余市の「食」って豊かだなとつくづく思います。

というわけで晩ご飯。じゃじゃーん。

献立はこちら。八角が食卓に上ると北海道に来たな〜という気分になりますね。焼き牡蠣にとろろ昆布が仕込んであるのも芸が細かい(そして美味い)。

そして酒。やはり左川ちか全集刊行を祝するとなると、ここはワインでは無くシードルでしょう。
しかも登町産。もうどんぴしゃりですね。

いかにシードルの度数がそれほど高くないとはいえ、ボトル一本を独りで空けるとべろんべろんですわ。
というわけで、食後は即死。


北海道自家用車旅行番外編〜WEB本の雑誌連載「余市の人々。」

本の雑誌という雑誌があります。といっても詳しいことは全然知らなくて、そういう雑誌があるな、という認識を一応持っている程度です。本の雑誌社についてというページにいろいろ説明が載っています。1976年に椎名誠らが創刊。なるほど。

で、WEB本の雑誌の読み物/連載コラムに、なぜか余市の人々。という連載があるのです。執筆者の江部拓弥さんはdancyu web 編集長ということで、特に余市関係者ということでもなさそう。
なぜに余市?と思って連載第1回目を読んでみました。何度か余市を訪れるきっかけとなったエピソードはなるほどという感じなのですが、でもそれだけでこういう連載を始める理由として十分か?と言われると、よくわかりません。
江部さんは連載を始めたきっかけについて、こんなふうに書いています。

余市へ行くたび、思っていた。寂しさが漂っているのに、暗さがない。そう、余市は明るい町だと。日本全国いろんな土地に足を運んだけれど、何かが違う。なんだろう。なぜだろう。考える。考えた。けれど、ちっともわからない。
余市。おじさんの名前のような、どこかおかしみのあるユニークな名を持つ町で暮らす人たちは、何を想うのだろうか。余市の人々の話を集めることで、探していた答えが見つかるかもしれない。余市の「よ」がわかるかもしれない。話を訊いてみたい。それが「余市の人々。」のきっかけだった。

というわけで、どの回も面白いです。
たとえば連載一回目の塩田屋商店。何となく食料品を扱ってそうな屋号だけど、本屋さんです。なんと創業して約百年。さらに驚くのは、余市には他に2軒、塩田屋商店よりも古くからある本屋が今なお営業を続けているとのこと。百年前というと1920年頃だから、1911年生まれの左川ちかはまだ小学生。本別から余市に戻ってきた頃、もしかしたらこの店に立ち寄って本や雑誌を買ったりしていたんだろうか。なんだか頭がくらくらしてきます。
でも、記事の中身はいま現在の町の本屋のリアルな話。40年前に早川義夫の「ぼくは本屋のおやじさん」で読んだ書籍流通の問題点が今なお改善されないままアマゾンとの競争で苦境に立たされているという、日本全国共通の構図がここにもある、ということではありますが。。。
過去の景気がよかった時代の話もあり、衰退しつつある町の話という側面は厳然としてあるのだけど、でも最後に店の主人が一言、
「余市はまだまだいけるはずだよ。まだまだいけますよ」

・・・今回は番外編から本編に戻るつもりで、余市で泊まった駅前旅館「かくと徳島屋旅館」の話の前振りとして、この連載の4回目に取り上げられた。。。という話から書き出そうとしたら、旅館の話にたどりつく前にずいぶん長くなってしまったので、これも番外編とさせていただきます。本編に戻るのは次回からということで。


北海道自家用車旅行番外編〜左川ちか

今回の旅で余市を訪れた理由の一つとして、余市出身の詩人・左川ちかが生まれ育った風土を見たかったということがあります。これっていわゆる「聖地巡礼」ってやつでしょうか。いやはや。
同じ趣旨で2年前〜コロナ禍の直前〜にも余市を訪れているのだけれど、あのときは1月でした。もちろん冬は冬で趣があるし、左川ちかの作品にも冬の余市をモチーフにしたとおぼしきものはいくつかあって、どれも魅力的なのだけど、左川ちかの詩によく出てくる「過剰な緑」を感じてみたかったんですよね。。もっともそれが一番よく感じ取れるのはちょうど今くらい、5月末から6月にかけてで、GWだといささか早いのだけど。

ちなみに、旅行に出発する直前に、左川ちか全集が刊行されました。なんというグッドタイミング。
詩はもちろん翻訳やエッセイまで全て網羅した400ページ超の本が2800円+税。刊行後一ヶ月で3刷というのも頷ける充実ぶりです。
もちろん旅行にもお守りのようにして持って行きました。車の旅なので荷物が重くても関係ありません。もっとも旅の間はほとんど読みませんでしたが。。。

この労作をまとめ上げた島田龍さんは解説でこう述べています。

ノスタルジーやロマンティシズムといった叙情性とは程遠いクールで硬質な文体。でありながら観念抽象的な言語遊戯に陥らず、一般的なモダニズム詩には希薄な”私”という何者かの熱量をじかに感じた。

これはまさにそういう印象なのですが、これっていわゆる「荒地」の詩人たちが十数年後に戦争と向き合うことを強いられる中でたどり着いた境地に近いのではないかという気がしています。って、私が「荒地」の詩人たちの作品に(当社比で)なじみがあるが故の我田引水に過ぎないかもしれませんが。。。

たとえば、1930年代末〜左川ちかが逝去した数年後〜まだハタチになるかならないかだった未来の「荒地」の詩人たちが集った集会での出来事。

「ぼく(=三好豊一郎)は田村(隆一)君のような詩には、我慢ができない(中略)田村君のようなヘナチョコモダニズムは毒にも薬にもならないと思うんです。言葉の遊戯そのものだ。(中略)まるで「人生」というものがない。感情の深い洞察力も喚起力も、まるっきり見あたらないではないですか。この田村君は、いったいどんな気持ちで詩を書いているのでしょう。(中略)モダニズムのもっとも悪しき一面を、田村君の詩は露呈しています。ぼくは人間の魂が感じられないような詩を断乎として排すものであります。」(中略)八王子の青年(=三好豊一郎)の口からとび出した「人生」だとか「魂」という言葉は、まったく異様なひびきをもってぼくの耳をおそった。これまでに、「人生」だとか、「魂」という、浪花節語りか人生派の詩人の口からでもなければきかれないできた言葉がモダニズムの詩と関係があるとは、ぼくは夢にも思ってみなかったのである。
(中略)もうこの作品(=鮎川信夫「形相」)になると、日本モダニズムのまるで精神分裂症のような症状や、相手の分からない敵を追いまわしているようなサタイヤやイローニイの影はすっかり没してしまっている。(中略)三好青年の演説した「感情の洞察力」と喚起力とが、敏感な青年の感受性をとうしてありありと感じられるではないか。昭和十二年にボッ発した日支事変はいまやドロ沼におちいり、太平洋戦争にさきだつこと、ほぼ一年まえの作品である。(田村隆一「若い荒地」)

そして彼らから見た現代詩の見取り図は以下のようなものでした。

かつて木下常太郎氏は、現代の詩人を現実派、抒情派、主知派と大きく分類した。こうした分類は不正確だというそしりを一部から招いたが、今の詩壇の傾向を分類するには、これより仕方がないと思う。(中略)現代詩壇の前衛とされているこの芸術派と現実派の二つの流れは、おのおの現代的存在理由をもっているが、その存在理由は美学ないし世界観に根ざしたイズムの形をとっている。それだけに傾向として、一方に偏しやすく、その抒情を否定する論理も、末流になると詩の源泉的感情、奥底の動機というものを忘れてしまう場合が多い。しかし、優れた詩は知性的なものと感性的なものとが常に一致していなければならないものである。詩人の全存在を満たす言葉のバランスを見つけることが詩作の興味であり、詩人にとって最大の喜びなのである。成功した作品は、知的なものと状的なものが渾然と一体をなし、詩人の全投影が小宇宙を形づくり、生き生きとした言葉の秩序を形成しているものである。こうした場合、感性的要素はむろん大切なのであって、むしろ詩の知性的要素よりも強く読者の心に訴える力を持っている。優れた作品は、知性的な要素でさえ完成に訴え、また、感性的要素も十分知的であり得るのである。(中略)現代詩の世界では、古い抒情を排撃するけれど、それは恐らく詩人の感性が変化したためであろう。そして現代の詩人の感性に訴える新しい抒情詩というものが必ずある筈であり、ようやく反省期に入った現代詩そのものを、こうした麺から再検討してゆくことが必要であるように思われる。」(鮎川信夫「現代詩の分析」)

なんだか引用だらけになってしまって申し訳ないのですが、この方がよほど正確に伝わるような気がするので、こうさせていただきました。
最後に、黒田三郎の伊藤整評なぞ。

最後にひとつだけ、身にしみて感じられることを記しておきます。それはこの二冊の詩集(=雪明かりの路、冬夜)の書かれた時期のことです。大正時代の末に主として書かれ、僅かに昭和の初年に達して、それで終わっています。この時期には、アナーキズムやプロレタリアの詩が盛んになり、一方、ダダイズムやシュールレアリスムの詩も起こって来ました。昭和にはいると、それ以前の大正の詩とは断絶してしまった感があります。この断絶感のため、大正時代のすぐれた自由詩の伝統は、ほとんど次の世代に継承されることがなかったのではないかという思いがしてなりません。『雪明りの路』と『冬夜』をよみ直してみて、痛感するのはそのことです。ここに、大正時代のすぐれた自由詩の尾をひく、美しい詩があります。ところが、その作者は昭和のはじめになって、これを書きつづけることを止めました。僕が思うのは、はたしてそれは伊藤整という個人だけの問題だろうかということです。そこで、新しい激流に押し流されるようにして、姿を消したさまざまの詩の可能性があるのではないかというふうに思われてなりません。後年、この二冊の詩集が、作者伊藤整にとって年毎に大事に思われるようになった経緯を省みると、この時代そのものも、何か大事なものをひそめているような気がしてなりません。(黒田三郎「詩のあじわい方)」

実は、「断絶している」と思われた口語自由詩と現代詩のミッシングリンクが伊藤整→左川ちかのラインなのではないかと密かに思っていたりします。もちろん、そこには大きな飛躍もあったので、伊藤整自身を含め、乗り越えることはとても難しかったということなのだろうと思いますが。

あと、「荒地」の詩人たちが飛躍する上でのトリガーが「戦争体験」であったことは、いろいろな意味で大きかったんだろうと思います。グローバルな政治、社会、思想に対する強い問題意識を生み出す一方で、軍隊というホモソーシャルな集団での体験の共有が(たとえそれに対する反発であったとしても)生み出したものも後々まで尾を引いたのではないかという気がしています。