ボサノバへのいくつかの入り口(その4)

4.ボサノバへの入り口その4〜ジャズ
雑誌とかでネオアコの女性ボーカル(例えばトレーシー・ソーンとかアリソン・スタットンとか)について語られる際によく引き合いに出される存在として、アストラッド・ジルベルトの名前は割と早くから知っていましたが、実際にアストラッド・ジルベルトの唄を聴いたのは90年頃、ジャズの名盤ディスクガイドみたいな本を読んで「ゲッツ・ジルベルト」のことを知り、CDを買ってからのことです。そのとき感じたことは、
・アストラッド・ジルベルトの唄はまぁ予想通り。
・ジョアン・ジルベルトの唄は、うーんなんだこの地味で冴えない感じは。
・スタン・ゲッツのサックスは朗々と歌っていて良いけど、ほかのバッキングも含めてもろジャズだな。
といったところでしょうか。一言で言うと、アストラッドの唄以外は初期ネオアコで刷り込まれたボサノバのイメージとはかなり異質な音楽という印象でした。

でも、このイパネマの娘でボサノバは世界的に知られるようになったわけで、これをきっかけに当時ボサノバを取り上げたジャズ作品はたくさん作られたようですし、今でもジャズの世界ではボサノバのスタンダードは定番レパートリーとして完全に定着していて、割と最近発刊された「ボサノヴァハンドブック」は”the real book”(ジャズセッションで使われる簡略化されたメロディとコードだけの曲集)のボサノバ版として活用されつつあるようです。

Wikipedia

アメリカではボサノヴァ・ナンバーに英語詞を付けたものが、ポピュラー歌手によって盛んに歌われた。だが、その実状は多分にエキゾチシズムを帯びた一過的なものとして消費された感が強く、歌唱や演奏の在り方も、本来のボサノヴァからはかけ離れたものであった。その傾向は日本においても共通するようである。この「本来のボサノヴァ」と「ボサノヴァ風の亜流音楽」の並立は、現代のリスナーの相互間に、奇妙な階級対立を招く原因となっている。

という書きっぷりは、どうもジャズ側には好意的とは言いがたい感じですが、私なんかはインド料理とカレーライス(カレーうどんも可)の関係みたいなもんで、ことさらに「本来」とか「亜流」とか言わんでもいいんでないのかなと思います。ただ、ボサノバにはいろいろな世界とそこに属する人々がいて、相互に微妙な関係(あるいは無関係)を持ちつつ併存していることは確かではあります。階級対立かどうかはしらんけど。


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