暮らしの音楽ライブIV 新曲その2

■青空のかたち

「花火と子供」は、すでに存在する曲に、これまたすでに存在するネタ(あのまりあさんの日記)で作った歌詞を付けた、という成り立ちなので、それほど時間もかからずに出来上がりましたが(あのまりあさんが曲を公開してからまだ二ヶ月経ってない)、もう一つの新曲「青空のかたち」は時間がかかりました。

今年の初め頃、広尾のレ・グラン・ザルブルというカフェに行ったときのことです。花屋の上にあるツリーハウスみたいな店で(経営は一緒らしい)、あのときは屋上の席に行ってみました。当然のように寒かったんですが、ここでビルや木々に取り囲まれた冬の青空を見ながらぼーっとしていると、「青空のかたち」という言葉と、それに付随する漠然としたイメージが思い浮かんだんですね。

これで曲を作ろうと思って、少しずつ歌詞を書き進めたんですが、どうも何を言いたいのか焦点が定まらない。
「青空のかたち」の核心というか肝はいったい何なんだろうと思いつつ、時間はだらだらと過ぎていきました。

きっかけは思いがけないところからやってきました。
出来心で大枚はたいて買った「マラルメ全集I 詩・イジチュール」を眺めていたら、「青空」という詩が目にとまりました。
この詩で青空は、無能で怠惰な詩人に「理想」とか「罪障」を思い起こさせて苦しめる脅威のような存在として描かれていて、詩人は霧やら靄やら煤煙やらを動員して青空を殺すのだけど、結局は青空は亡霊としてよみがえって詩人に取り憑いてくる。そんな詩です。
(追記)ネットを検索したら日本語訳が見つかりました。

自分のお粗末な歌詞をマラルメの詩と比較するのも憚られますが、「青空」を読んだことは、「青空のかたち」の青空は何なのかを考える上で非常に参考になりました。

「青空のかたち」の青空は、魂を解放させているときも、雨の中でしょげかえっているときも、気を取り直して現実に帰ろうとしているときも、そういう人間の状態とは関わりなく、いつもそこにある存在です。
「青空」の青空のように「脅威」というとらえ方はしていないけれど、一方で肯定的なとらえ方をしているわけでもない。

結局、「自然には、かなわない」の「自然」とか、「ホルモン」の「体の中を流れるもの」と同じような存在なんだ、と気がついたときに、一気に歌詞として完成に向かったのでした。
とはいえ「じゃあ要するになんなんだ」と言われるときに、きちんと答えられるようなものにはなってませんが、それはもともとがそういうものなので、これ以上焦点をはっきりさせると、むしろ意図したこととは違ったものになるような気がしています。

曲は、シンプルで良いものを作ろうと努力しました。
基本的には12弦エレキギターによるフォークロック(ビートルズとかバーズとか)をイメージしていますが、ライブでは6弦エレキによるトラヴィス・ピッキングです。取りあえず、今いちばん無難にこなせるやり方を採用したという感じですが、思ったよりは全然良い感じになったように思います(演奏のレベルはともかく)。


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