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ホームパーティー!

先日、友人宅でホームパーティーを開きました。

参加した友人の多くは前日の某イベントでも会っていたので、ある友人が「大人ってこんなに毎日会ったりしないもんだよね」と言ってました。そりゃそうなんだよな〜。とはいえ、できれば職場と家族以外の人とは滅多に会わないという生活はあまりしたくないなぁ。仕事が忙しいとなかなかそうもいかないのだけど・・・。

それはともかく、ホームパーティーは楽しい!好きな食材や飲み物を持ち寄って、好きなように料理してみんなで食べるのは最高です。仕事でも遊びでも遠くに旅した人が持ち帰った珍しい食材とかがあったらもう言うことなしです(今回は北海道出張土産の海産物ががっつりあったので鍋にして食いまくった!)。

で、ホームパーティーは自宅を会場として提供してくれる奇特な人があって初めて成り立つんですよね。ありがたやありがたや〜。
昔々、6畳1kのアパートに住んでいた頃、自室に10人以上集めて忘年会をやったことがあるので、一人暮らしの狭い部屋でもそれなりの規模のホームパーティーは可能なことはわかっているのだけど、でも今の部屋はいろいろ問題があって、なかなかホームパーティーを開催するのが難しそうなのは残念。そう遠くない将来に引っ越そうかと思っているので、その際にはホームパーティーができるような部屋を選ぶことにしよう。


がんにかかって何もしないで死ぬということ

あまり話題にしたことのない分野ですが・・・。

父親を肺がんでなくし、母親もがんの経験があるということで(いまは元気)、自分が将来がんを患う可能性は小さくないと考えています。
というわけで、がんについては人並みに関心があります。

ちょうど父親が肺がんになった頃、情報収集のためにあれこれ本を買って読んだりしたのですが、そのときに出会ったのが「がんもどき」で有名になった近藤誠氏の本でした。

治療法を選択する際には、それぞれの選択肢の治療効果を評価しなければなりませんが、そのような評価はつきつめたところでは難しい医学の世界の話なので、素人が自信を持って判断するのは難しいものがあります。
そのあたりを括弧に入れると、近藤氏が言っていることの多くはかなり説得力のあるように思われ、いろいろ考えさせられました。

たとえば、抗がん剤でも手術でも放射線治療でもいいですが、ある治療を行った場合と何も治療しない場合で結果が(あまり)変わらないのなら(たとえば5年後に生きている確率が同じとか)、その治療は効果が(あまり)ないわけですよね。もちろん、がんが縮小して苦痛が減るとかいう可能性もあるけど、一方で治療の副作用は多かれ少なかれほぼ間違いなく出るわけで、コストも含めて考えると結果として何もしない方がベターということになるケースも多いのでは、というのが近藤氏の言っていることの一つだと理解しています。

たとえば、治療してもしなくてもケースで5年後に生きている確率が20%だとします。
で、治療しないという選択をした場合、生きている確率は20%です(当たり前ですね)。言い換えると、死ぬ確率は80%です(当たり前ですね)。

なんでこんなことを書いているかというと、アマゾンの近藤氏の本のレビューで「(肉親とか知人とか患者とかが)近藤氏の本を読んで何もしない(たとえば手術をしない)という選択をしたら、その後、がんが進行して亡くなった」といった趣旨のことが書かれているのを読んだからです。星の数は少なかったので、ネガティブな意味合いを込めたレビューなのでしょうし、「何もしないままむざむざと死んでいくなんて」という心情は理解できる面もあります。

ただ、それは当然ありうる事態なんですよね。近藤氏が「患者よ、がんと闘うな」と言っているのは、意味のない闘いはやめましょうということですが、闘うのをやめたら勝つ(治る)可能性が高まるわけではありません。
近藤氏のような考え方に立つということは、(緩和ケア的なものは別として)治療はせずに死ぬ可能性を受け入れる、ということになるんだろうな、と思います。

なにもしないという選択をするのは、現実にはなかなか難しい面があるとは思います。
ひとつは、上に述べたように、なにもしない場合と治療を行った場合との効果が(あまり)変わらないということに確信を持てるほどの知識も情報もない状態で決断をしなければならないという、自分自信の心の持ち方、覚悟の決め方の問題。
あと医者との関係の問題もあります。なにもしないという選択肢をポジティブにとらえ、親身に相談に乗ってくれる医者ってどのくらいいるんでしょうか(いや今は時代が変わってそういう医者もたくさんいるのかもしれないけど)。がんが進行した段階で痛みが出たりすることもあるだろうし、死ぬ間際になったらあれやこれやで医者の世話になる必要がいろいろ出てくる可能性は高いと思うので、「何もしない=医者いらず」ということではないんですが・・・。まぁそのあたりは緩和ケアの領域で考えればいいのか。

というわけで、がんと闘わないことは、自分自身や他のいろいろなものと闘うことになるのだという気がしています。


DIY(またはライブ最終告知)

工作が好きです。
手先は不器用だしせっかちで雑な性格なので、たいていの場合、出来映えは芳しくなくて、子供のころ図工とかの成績は決して良い方ではなかったんですが、作ること自体が好きなんですね。

高校の頃、好きな音楽を好きなだけいい音で聞けるように自分用のオーディオがほしいと思い、近所の本屋でオーディオの本を買ったところ、たまたまその本がスピーカーシステムとかラックとかアンプとか何でも自作を大々的に推奨していたため、もろにその影響を受けて、学校の工芸の時間にはスピーカーボックスを作ったりしてました。以後、スピーカーシステムやラックは市販品を買ったことはありません。

そんなことをやっている中で、いわゆるDIY関連の本もあれこれ読みました。むちゃくちゃ凝った家具からちょっとした身近な子供のおもちゃみたいなものまで、道具もすごくバラエティに富んでいて、すごく面白そうな世界だなと思いました(今でも思ってます)。でも、この種の工作を本格的にやろうと思ったら、作業スペースや工具等を保管する場所が必要で、札幌の一軒家に住んでいた頃ならともかく、6畳1kのマンション住まいで本格的なDIYは難しいものがあります。

というわけで、本格的なDIYは手の届かないあこがれの世界なわけですが、中でもスケールが大きいのは、やはり家とか部屋とかを手作りすることかなと思います。
以前に習っていたギター教室の先生が、那須にログハウスを自力で建てて住んでいるんですが、合宿とかで何度かお邪魔するたびに、自分で建てた家に住むなんていいなぁと思ってました。

今晩7時からライブをやらせていただく祖師ヶ谷大蔵のCafe Muriwuiも10年前にDIYで作られた店です。
その様子はトップページから「物件編」「内装編」へとたどると見ることができますが、いやーすごいですよ。ただのコンクリートの箱からいかにしてあのなごみの空間が作られたかが克明にわかります。
本日ライブにお越しいただける方は、あらかじめ「物件編」「内装編」をごらんになることをお勧めします。たぶんお店の中にいても、気分が全然違うというか、内装や設備や什器備品を見る目が全然変わるのではないかと思うので。
それにしても、最後の「できた!Let’s enjoy!」はいいよなー。

ということで、本日のOTTさん、東輝美さんとの対バンライブ、ぜひお越しください!

■日時 3月22日(木)19:00-
■場所 Cafe MURIWUI@祖師ヶ谷大蔵(地図
■チャージなし・投げ銭制


1995年。

いま「オウム真理教の精神史〜ロマン主義・全体主義・原理主義(大田俊寛、春秋社)」という新刊本を読んでます。なんでそんなものを読んでいるかというと、「山形浩生の『経済のトリセツ』」で好意的に紹介されているのを見たからなんですが、それはともかくこの本の序章は「1995年を振り返って」という見出しから始まっていて、1/19には阪神淡路大震災という未曾有の災害に見舞われ、そして3/20には地下鉄サリン事件が発生するなど「日本中が異様な熱気と昂奮に包まれた一年だった」と振り返っています。

1995年??

1995年というと、私にとっては転職で札幌から東京に引っ越した年として記憶されています。いもづる式に記憶をたぐっていくと、
・ゴールデンウィークにはフェリーに車を載せて小樽から舞鶴に行き、大阪でニフティのMIDIフォーラムのオフ会に参加し、乗鞍温泉に泊まり、東京に泊まり、大洗から苫小牧までフェリーで帰った。
・7月には転職で東京に引っ越し(その直前にニフティのテニスフォーラムの泊まりのイベントでニセコに行った)
・12月には、友人の誘いで参加した草の根BBSの忘年会会場を提供。6畳+台所のアパートに13人くらい来たんだったかな。私が厚岸から取り寄せた生牡蠣の取り扱いが不慣れだったため、食した多くの人が当たってしまい、貴重な年末年始の休みを棒に振ったという。

ということで、忘れっぽい私にしては結構いろいろ覚えているんだけど、どうにもこれらのことが、阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件と同じ年に起こったとは思えないんですよね。
たとえば、5月に大阪に行ったわけだから、震災の爪痕の記憶があってもよさそうなものだけど、一切なし。
東京に転職する際だって、サリン事件のことがいやな予感として少しは脳裏をかすめたような思い出があってもいいような気がするけど、それもない。
というわけで、どうも自分の記憶について他にも何かがまとめてがっぽり抜け落ちてしまっているのではないかという思いがしています。

それはともかく、「オウム真理教の精神史〜ロマン主義・全体主義・原理主義」はなかなか興味深い本でした。内容はタイトルのとおり、オウム真理教とはいったい何だったのかをロマン主義・全体主義・原理主義という思想史(?)的文脈から読み解くというものですが、オウム自体の話もさることながら、特にそれぞれ1章ずつ割かれたロマン主義・全体主義・原理主義の解説がコンパクトでわかりやすく、さらにいろいろ読んでみたい気持ちにかられました(たとえば「全体主義の起源(ハンナ・アーレント、みすず書房)第3巻」とか)。あとオカルト系の話はなかなか積極的に手を伸ばそうという気にならないのだけど、こういうふうにクールな感じで書いてもらえるとありがたいです。ちなみに、この分野で私にとって有益だったのは他には「長岡鉄男のレコード漫談」くらいかな。


季節感の違い

なんか気温が猛烈に上がったり下がったりして、体調がおかしくなりそうです。しかも昨日行った耳鼻科の先生によれば、明日はすっごく花粉が飛ぶらしい。気をつけないと。

これまで札幌と東京でそれぞれ20年以上暮らしたわけですが、時々ふと、今頃の札幌の天気や気温ってどうだっけ? と思うことがあります。3月頭だと、あと少しで春という希望を持ちつつも、まだ冬まっただ中という感じだったかな? 札幌を離れて20年近く経つので、だんだん札幌の季節感が思い出せなくなってきています。

それでもいまだにやや違和感があるのは春です。札幌と東京では桜の時期が決定的に違うんですよね。東京では桜が咲くのは4月頭だから、入学式とかで桜が咲いているというイメージがしっくりくるけど、札幌では入学式の頃というと、泥まみれの灰色の雪があちこちに残っていて、すごく埃っぽく汚らしい季節です。一方、花見を兼ねた大学の新歓コンパ(「新歓コンパ」という言葉もずいぶん長い間見聞きしなかったので、死語になってやしないかと思ってついぐぐってしまいましたよ。どうやらまだ大丈夫みたいだけど)はゴールデンウイークでした。

というわけで、あと一ヶ月もたたずに桜が咲くという気が全然しないのは、札幌の季節感がまだどこかに残っているからなのか、それとも今年の冬がやたらと寒かったからなのか(なんとなく後者の方が大きい気もしますが)。