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「ガイガーカウンターミーティングふくしま」とクラウドファンディング

昨日、ツイッターを眺めていたら福島でガイガーカウンター・ミーティングをやるという話が流れてきました。
ガイガーカウンター・ミーティングというのは、公式サイトにもあるとおり、放射線測定器(特にガイガーカウンター)の機能や特徴、適切な使用方法について理解を深めることを目的に、昨年6月に東京で開催されたイベントです。公式サイトには、講演資料やイベントの様子がアップされています。とても行きたかったのですが、残念ながら別件が入っていて行けなかったんですよね。

ちなみに、私はオーディオアンプを自作する趣味があるのですが(最近はすっかりさぼってるけど)、その際に使う測定器(オシロスコープとか電子電圧計とか)について使い方などの情報を漁っているうちにわかってきたのは、どうやらその種の測定器には「校正」なるものが必要らしいということでした。校正というのは、要するにその測定器が正しい値を示すように調整するということです。日常生活で「測る」というと、定規で長さを測ったり、体重計で体重を測ったり、体温計で体温を測ったりすることをイメージする人が多いと思いますが、その際に定規や体重計や体温計が本当に正しい値を示しているかどうかを疑ったりはあまりしないと思います(体重計が目を疑うような値を示すということはあるかもしれませんが、それはたいていの場合測定器の問題というよりは本人の節制の問題ではないかと)。測定結果が明らかにおかしい場合は、体温計なら壊れていると判断して買い換えるかもしれません。体重計は何も乗っていないときの値がゼロでなかったら調整するでしょう(これも一種の校正ですよね)。でも、定期的にメーカーに調整を依頼したりはしないと思います。
ガイガーカウンターという測定器については、私はあまりよく知らないのですが、ネットなどの情報をちょろちょろと眺めてきた感じからすると、測定方法や測定器のクセのようなものについていろいろ配慮が必要な計測器のような印象があったので、測定にあたってどういうことに注意しなくてはならないかについて理解を深めるためのイベントというのは意義のあることだと思っていました。

で。くだんのツイートにあったリンク先を眺めに行ったら、そこはREADYFOR?というクラウドファンディングのサイトでした。クラウドファンディングについては全然詳しくないので説明はこちらを参照していただくとして、要するに実施費用をネットを通じて不特定多数から調達するという話です。

クラウドファンディングについては、先日紹介した映画「ハーブ&ドロシー」の続編「HERB & DOROTHY 50X50」の制作費用をKickstarterというクラウドファンディングで調達しているという記事(前編後編)を読んで、そういうものがあるということを初めて知りました。ちなみに「HERB & DOROTHY 50X50」では約8.8万ドル(目標額の158%)を調達したとのことですが、その裏には大変な苦労があったとのこと。見出しには

資金調達は筋トレ!!とにかく、本気で、全力で取り組むこと。

とか書いてあります。筋トレっすか。まぁ何百万円というお金を集めるのが楽なわけはないですよね。

いずれにせよ、ガイガーカウンター・ミーティングは良いイベントだと思うので、ささやかながら私も支援に参加しました。イベント自体にも参加したいような気もしますが、これはできるだけ多くの福島県の方に参加してほしいイベントだと思うので遠慮させていただくとして、「後日東京に帰ってきてから、録画した記録映像をUstする可能性はあります」とのことなので、こちらを楽しみにしています。


クワクボリョウタ「10番目の感傷(点・線・面)」

去年の10月に大阪の国際国立美術館でやっていた「世界制作の方法」という展覧会で見て深く感銘を受け、すっかりブログで紹介した気になっていたのに、改めて過去のエントリーを見返してみたら、その頃はブログ書きをすっかりさぼっていたことが判明したので、半年以上も経過してしまったけど書いてみようと思います。

それは、クワクボリョウタの「10番目の感傷(点・線・面)」という作品です。

真っ暗な部屋に鉄道模型のレールが敷いてあって、その周りにいろいろなもの〜この作品のために作ったとおぼしきものもありますが、多くは時計とか洗濯ばさみとかざるとかいったありふれた日用品です〜が置いてあります。で、レールの上を強い点光源を載せた列車が走っていくと、そのいろいろなものが影絵となって部屋の壁に映し出されるという趣向です。

と説明しても、実際にどういう感じなのかは見てみないとわからないと思うので、上記のリンク先に置いてあるムービーをご覧いただければと思います(できれな夜に明かりを消した部屋で見た方が良いと思います)。日常的でありふれたものを使って、とても非日常的で幻想的で世界を作り出しているというギャップが非常に面白いです。

個人的には、昔よく乗った夜汽車のことを思い出しました。子供の頃は札幌に住んでいて、修学旅行で京都に行くときも東京の親戚や友人を訪れるときもみな夜汽車でした。高校の頃に釧路の方の海水浴場に行ったときや、大学の頃に函館の方に旅行に行ったときには、夜行の普通列車の乗りました(今はほとんどないですよね)。東京で勤めるようになってからも、しばらくは札幌に帰省するのに鉄道を使っていました(そのうち飛行機を使うようになったけど)。

よく乗ったとはいっても非日常的な体験であることにかわりはなく、しかも時間帯が夜であることもあって(だいたい酒も呑んでるし)、ぼんやりととりとめのないハイな気分でずーっと外を眺め続けるんですが、車窓に展開される夜の風景の多くは、その風景の中にいる人にとっては日常そのものだったりするわけです。たとえばどこかの駅に停車しているときに、線路のそばの家の窓越しにテレビでプロ野球を見ながらビール飲んでるおっさんが見えたり、とか。それはずいぶんディテールの明確な例ですが、道路だとか橋だとか街路灯だとか、そこにいる車や人影とか、ほとんどは日常の営みそのものなんですよね。

そんな、日常と非日常が混濁した魅力を、この作品を見て思い出したのでした。


「勉強」の見直し

週末、本屋で「大人の勉強のやってはいけない!〜仕事と勉強を両立させる108項目」という本が平積みされていたのを見て買ってしまいました。

この手の本って、全く思いもよらなかったようなことが書いてあるわけではないんですよね。
たとえば、この本の第1章は「目標の立て方編」なんですが、、中には「こういう間違ったやり方をやっていませんか?」という項目が列挙されています。どういう項目かというと、
「そもそも目標がない」
「目標が目標になっていない」
「続けることを目標にする」
「期限を決めていない」
「期限が長い」
「本当はやる気がない」
「逃げ道を作っている」
「複数の目標を同時に抱え込む」
「目標を語る自分に満足する」
という感じです。人によって感想はまちまちでしょうが、薄々そうなんじゃないかと思いつつ、あまり考えないように・触れないように日々やり過ごしていることが書いてあるという印象を持つ人もそれなりにいるんじゃないでしょうか。
そういうことを、自分自身に対してあからさまに文字として突きつけるというのが、こういう本の価値なんだろうなと思います。自分にハッパをかけるというか。

ちなみに、この本が対象とする勉強は実学に関するもので、趣味とか教養については、

・・・目標や期限というのは特に設ける必要はないでしょう。いくらでも好きな時間を使って気の済むまで極めればいいと思います。

とされていますが(「教養編」という章もある)、こと音楽についてはスキルを習得するという側面が大きいこともあって、実学とそんなに変わらないような気がします。好きな本を気の向くままに読むような場合は別だけど。

てなわけで、なんとなくこの本で実学・趣味の勉強について見直しをし、併せて「断捨離」で身の回りのものを見直すことをやろうかなとか思っている今日この頃。


異変

朝、いつものように6時半過ぎの電車に乗る。
な、なんだこの混みようは。
いつもの倍以上混んでる気がする。原因を解明すべく客層がいつもと違うかどうかチェックを試みるがよくわからず。どこかの線で何かのトラブルがあって振り替え輸送しているのかとも思ったけど、そのような放送がかかるでもなし。

地下鉄の乗り継いで地上に出る。
なんか変な天気だな。空は明るいのになんだか暗い。太陽のところにだけ雲がかかっているようなときの感じ。
・・・と、なんか何かをかざしながら太陽の方を見ている人がちらほら。

そっか、今日が金環日食か・・・。


羊頭狗肉

昨日読んだあるブログの記事に、

日経の見出しの付け方(中略)は、いささかミスリ-ディングの感があります。(中略)なんにせよ、日経新聞がつけた見出しだけで分かったような気分になるのではなく、ちゃんと中身を読むことが必要です。

と書いてありました。

記事のタイトルがミスリーディングだとか、書名が本の内容を表していないとかいった話は、数年前からすごく目立つようになった感覚があります。
最初は、そんな羊頭狗肉なことをやってたら、そのうち中身も読んでもらえなくなるんじゃないかと思ってたんですが、その後も羊頭狗肉なタイトルは減るどころかますます増える一方のような気がします。
おそらくこれは、私が当初感じたこととは全く反対のことが、マスコミとネットの膨大な営みの中で実証されつつあるということなのかな、と思うようになりました。それはつまり、羊頭狗肉に対しては学習機能が働かない(働きづらい)ということではないかと。
そういえば、社会人になりたての頃、通勤電車の女性週刊誌の吊り広告に「聖子 歌う分娩台」とか「ああ鬼母 赤ちゃんの頭に五寸釘」とかいう見出しを発見して目が点になったり頭が真っ白になったりし、ついつい本屋に行って立ち読みしたら全然大した記事じゃなかったことを思い出しました。さすがにわざわざ現物にあたって確かめるような面倒なことはほとんどやったことないけど、これがネットでクリックしたら記事が見られるということだったら、ついつい見てしまう頻度もはるかに高くなるかもしれません。

こういう「釣り」って、週刊誌には昔からあったけど、今や書籍や新聞も含めたメディアやネットに全面的に普及しつつあるということなのかな。